俳諧文学の中に「空に徹する」を考えてみたい。正岡子規と共に客観写生の作風で知られる髙濵虚子(1874~1959)に次の句がある。
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去 年 今 年 貫 く 棒 の 如 き も の 虚 子
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この句は昭和25年の作で句集『六百五十句』にある。私たちはこの句に何を読み取ることができるか。昭和25年は戦後間もないころだから復興の決意ととらえるのか。あるいは虚子の生きる決意ととらえるか。さまざまな枠をはなれて「空に徹する」といえるのではないか。言葉で表現してしまわないところが俳句の特徴である。この句、17文字を広げると小説にもなりそうだ。
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初 空 の 雲 静 か な り 東 山 虚 子
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虚子は現松山市出身で、旧制第三高校、現在の京都大学に進んで、その後、仙台の第二高校に転校した。この句が読まれた時期は不詳だが「東山」とあるので虚子19歳、明治26年(1893)ごろだろう。京都の冬は寒い。骨が冷えるという。「雲静か」には東山周辺のいろいろな風景が目に映るようだ。この句には雪が積もったとは書いてないが、雪が積もると音が吸収されて街中でも静かだ。東山のふもとには南禅寺や清水寺、知恩院などの名刹が多く立ち並ぶ。まぶたの裏にその風景が浮かぶようだ。そのころの初春の東山界隈はさぞ静かだっただろう。
虚子の作句には宗教臭さがない。しかしその精神的背景には禅がある。「空」のサンスクリット語Sunyata には「静か」という意味が含まれるそうだ。
そもそも俳句には解説をすべきではないのであるが、また俳句に素人の私にはその資格もないのだが「空に徹する」を虚子の俳句を例に考えてみた。
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