それは人間が噂話や悪口が好きでしょうがないからだ……とある作家が書いていた。
彼の幼少時代の体験……お前の家は犬を食うんだってな?と囲まれ唾を吐かれ殴られた。彼の両親が半島出身者だからだ。
また、母子家庭の同級生に対して父親が人殺しで刑務所に入っている?という根拠の無い悪口の話……。
その時々に、作家の母親は繰り返し彼に言ったという。
『誰かを苦しめる嫌な話や噂話があったら全部あなたの胸で止めなさい』……と。
そうやって育つ内に……悪意に根差す誰かの噂話をしてる人の顔はみんな一様に醜い事に気付いたと……。
彼は最近になって中国の古典の中に……『流言は智者に止まる』……というのを発見したという。
中国の古典など読む筈もない母親も流言によって随分と悲しい目にあったんだろう……と回想していた。
言うに言われぬ悔しさとか悲しさとかを何度も何度もくぐり抜けると人は哲学に辿り着けるのかも?知れない。
人の損害とか苦しみを知らぬ人は知らないのだから無頓着に人を傷付ける。
自分の苦しみを知って欲しいけれどそんなの叶わない。仕方なく傷付き落ち込み苦しんでいる内に……人は『自分の 罪』に辿り着けるからである。
自分もまた他者の苦難を『知らない罪を犯してるかも知れない』……と。
そうやって流れ来る流言を自分の胸の中に止める事が出来る様になる……。
『施すは仏の心、施してやったは外道の心』
人の情けにすがるしかない!そんな境遇を何度も越えて苦しみ生きる内に……その言葉はやっと自分の中に入って来たのだった。
自分に向けられた外道の心を通して自分の中の外道の心が炙り出された?そんなニュアンスで僕は『自分の罪を知った』のだった。