視聴の動機は『何故?』だった。
何故?あんなに熱中してる人が多いのか?
軽く、軽く、更に軽く……と流れる底流にはそれでも……『それでも自分!』という思いがある。
そんなある日の夜、『激レアさんをつれて来た』をみた。
暴走族を社会学的見地から研究し続けた人が取り上げられていた。
大学で暴走族に潜り込み研究した人は居ない。もし?それやったらすごい研究になる!と聞いた彼は暴走族のパシリを志願して研究開始。十数年広島でパシリ生活の後、沖縄へ。そこでもパシリしながら研究継続。
暴走族の夜の生態しか知らないと今度は、昼間建設現場で十年を超えて暴走族と共に働く。
四十代となった彼は、研究の集大成として一冊の本を出す。何のあてもなく、そろそろ大学で教える仕事でもしなきゃね?と思ったからである。
結果その『ヤンキーと地元』なる本は社会学の本としては異例の重版を重ね大ベストセラーとなった。
そして彼はなんとなく思ってた大学で教える職に迎えられましたとさ……メデタシ目出度し。
ゲストの若手俳優が言った。
『自分が恥ずかしくなった……』と。何時も目先の計算と姑息な立ち回りばかりしてる自分が……と。
TikToker達は…極めてローカルな閉ざされ限定されたエリアで生きながら『ソコソコの容姿』だと自認してる。『実は?、私……』と稚拙なダンスと『コレがカワイイ私の表情』を繰り返してる。勿論パンツが見えそうなポーズも忘れない……。
そして……『フォローしてね?』と求めるのである。
対極にあるこの……社会学者とTikTokerという二つの生き方を観て思った。
自分の感性の直感に『ただ従い続けたスタンス』は凄い個性とパワーを手にするんだなぁ?……って。
『今の自分には無い』けれど『理想とする自分の完成予想図』に向けて演っている『何か』を準備せず……TikTokerの群れは『手っ取り早くウケる』事をキーワードにしてる人多く……。
『こんなのどう?』と悪ふざけの領域を出れないイタズラや自分のパンツをチラチラさせての『媚を売る姿』は人を哀しくさせ嫌悪感を呼び起こすのである。
人間なら誰でも、どうのこうの言ったって『作為と計算』を心の底に隠し持つ。
『ソレを超える興味』を得たとき人は自分の作為と計算から逃れ自由を得る。
作為と計算に自分を支配されると『媚る人』となる。『買ってくれ!』、『買ってくれ!』がアカラサマに漂う人の商品力は買い叩かれるだけである……。
楽してひと山当てる?……ソレもできるだけ早く?
フェラーリを何台も持つ若き社長とか?キャバクラオーナーの女社長とかTikTokerには何人もいる。ソレを持て囃す動画は何時もその『高価な品』をゾンザイに扱う事で成り立っている。
手っ取り早さには?……絶えず『人格の踏み固めの時間不足』が付き纏う……。
その人を持ち上げる為にはカネとクルマを必要とするっていう『アリキタリ』は昭和の時代から続く伝統の手法だなぁ?と思った。
若い人達に『自分の中のコレだ!!!』を見付けて欲しいと切実に感じる。
結局ソレが一番自分に対して価値を生む宝物なのだから………。
『姑息な計算・作為・もの欲しそうな刹那の時間』を捨てさせる『自分のコレだ!!』に出会って欲しいとオジサンは切に願っている。