サンチョパンサの憂鬱

止まる勇気

止める勇気、何もしない勇気、沈黙する勇気、弁明弁解しない勇気……。

今、一見ネガティブに思える行為に凄く勇気を必要とする時代なんだと思う。

今、今、今、……こんなん出たぞ!さあさあ、急がないと遅れちゃうよ!とパソコンの計算力に頼って次々に目の前にちらつく『コレが新しい達』……。

嘘臭い違和感を感じたら……離れる事。
やらなきゃパニックと距離を取る事。
自分の感性に従う勇気である。

自分『も』何かしてなきゃ不安になる。『みんな』取り憑かれた様にスマホを睨んでるけど……確実に疲れている。

そりゃ当たり前で……なんの目的も必要もないのだから。
だからSNSって終わりがない。肝心の目的と必要がないからだ。お付き合いの為の終わりなきプロセスが延々続く。

その、行為は……意味のない老人の気遣いと同じ。臆病者の相槌以上の意味などないのである。
人生の意味はツールなどの中にないのである。
それは……長い間蔑(ないがし)ろにし続けたあなたの心の中にしかないのである……。

止める事は始める事と比べ物にならない勇気を必要とする。それは『心の慣性の法則』によるモノなんだと思う。

ダラダラと続けて来た惰性の習慣……その膨大な時間をこれから一体何をすれば良い?……。
『自分も』がなくなり『自分は!』に変わることは結構なプレッシャーなのである。

何もしないという静止した自分の空間に身を置いて過ごす。何時と分からない『コレだ!』がやって来るまで待ち続けるのである。

同じSNSでも……その静止のプロセスの後に見付けたモノはそれに使われるんじゃなく『自分の為に使いこなす』事が出来る様になる。
それが『目的を手にする事』の効用なのである。

手段は目的の為に使うモノである……その目的が暇潰し?になる人生は余りにも哀しいんじゃね?……。
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