その記事を読み進むにつれて……なるほど切っ掛けって絶妙のタイミングで提示されるもんだなぁ?と驚きを以て一気に読んだ……。
自他の『人の本性』ってものは日常においては中々現れない。
自分が大ピンチ!って時に……天によって『自分は試されている?』そんな感覚を覚えたら正解だと何時か書いたことがあった。
そしてまた……その時こそ関わり来る人達の心、その本質が一気に表出するものだと……と。
その記事……。人が窮地に追い込まれた時に『人の本性』は一気に露わになると書かれていた。
窮地に陥った時に、そのピンチ正面から受けて立つ!という心境を得たらしめたもの。
窮地に事欠かなかった僕の経験を思い出す。
その場面で狼狽し取り乱したら……それが自分の本性……ピンチはより大きくなるという悪循環に陥ることは何としても避けたいものである。
『受けて立つ!』という覚悟を持てば……普段の自分より数倍落ち着き、頭の中で状況は一気に整理され、進むべき方向がハッキリ見える様になった。
他人が大ピンチ!……ソレを見ている周囲の人……その人はピンチにある人に対して『圧倒的な有利の状況』に在る……。
そんな時に人は得てして『とても残酷な心理』にとらわれる……とその記事は指摘していた……。
『人の窮地を観ている人』……その時観てるその人も『大ピンチに在る』のだと何度か僕は書いたことがあった。
急に手のひらを返して、非ぬ評論(時に非難・誹謗に近い)を投げて来た人は多かった……のである。
その心、その形相…憎む価値すらない?
僕は……それ見たことか!って薄ら笑いを浮かべてるそんな人を憎む?より『恐怖心そのもの』を感じたのでした。心の底から本能的な恐怖だった。
他者のピンチに立ち会った時……人は自分の余裕を舐めている。
自分の本性、人間性がその余裕からくる油断によって一気に曝け出すかも?っていう大ピンチなのである……。
窮地に在る人、ソレを観てる人……両者とも等しく『天に試されている時』なのである。
この世に起こる全ての事には全て表裏があり、見えてる表面のみで人多く判断してしまう。
すわ大変!ってなオオゴトの裏にはソレに等しい『大きな要素』が提示されている?のである。
その瞬間……当事者は大きな不利にあり傍観者は『圧倒的な有利』な状況……。
当事者は日常を超える大きな学びのチャンスという裏面。
傍観者には『大きな油断・慢心』から『自らの残酷性』を引き出されるかも?という大ピンチ?が裏面には仕込まれている?
大きな窮地を過ぎて……『次への展開に夢中』って流れに入った頃……油断から非ぬ人間性を披露してくれた人達は……『その残酷性を反芻(はんすう)するかの様に』必ず『人の不幸見物』にやって来たものだった。
窮地を転じて勇躍次の一歩を踏み出してる僕を暫くは信じられない?そんな表情となり
『その事は既に終わっている』事を遅まきながら認知するとそんな人達は一様に寂しそうな顔をして名残惜しそうに帰って行った。
それは個人の性格?というより『人間の持つ哀しい性』なんだろう。
そんな人達は個性が無かった。皆が同じ表情になり同じ寂しさをその顔に湛えていたのが不思議だった。
人間は誰もがそんな残酷性を心に秘めているんだと思う。だからこそ……何時も自分の心の暗部と格闘しなきゃならないんだと思う。
その格闘を通して……『変わらぬ人間の基準』というものが手に入るんだと思った。
『他人事を使って』自分の心の貧困を表現することの哀しさ?だと思う。
幸せになるも不幸せとなるも……自分の人生で自分の事によって味わっていく……それが楽しく生きていくセオリーなんだと思う……。
僕の窮地に差し伸べられた多くの人の手……。
ソレがとても温かったのは……その人達が僕のピンチを『自分の事にしてくれた心』だったからだと思う……。