サンチョパンサの憂鬱

2 ラブ & ピース?

SNSか何かでふと目に止まった記事……。
2017年ケメ(佐藤公彦)心筋梗塞にて死去とあった。

地方の田舎高校生にとって深夜放送は『音楽の今』を知る唯一の手段だった。
吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水、かぐや姫……様々のメジャーなフォークシンガー達の曲の後ろに隠れるようにふとラジオから聞こえ来たケメの『通りゃんせ』だった。

大学の一年生だったか?
アルバイト先の先輩の女性がくれたコンサートのチケットを持って小さなホールで彼の歌を聴いた事があった……。

中性的な歌声とは裏腹の快活なエンターテイナーだった。飽きさせない2時間余り……。
こういう人間ってのはやはり違うんだな?と思ったのを覚えている。


音楽は国境を超える力がある。確かにそれは一部真実であり全くの嘘じゃない。
類稀な才能のほんの数%、一部分に触れるだけで僕達はとんでもなく昂揚し酔いしれるのだから……。

ヴェトナム戦争を契機に、ビートルズを初めとして『ラブ&ピース』ってのが表現の世界を席巻していた。
フォークもロックもデザインの世界にもそれは大きく影響したと思う。
ウッドストックのフェスティバルのフィルムも何度か観た……???

??それで何?……というのが偽らざる僕の感覚だった。
『怒れる若者達』はムーブメントとなりヨーロッパはフランスを中心に、アメリカそして日本の学生を中心に反戦、反核のプラカードがやたら目を引いた。

ラブ&ピースに限らずカウンターカルチャーが輪郭を現し始めると不思議と、このラブ&ピースの様に儀式化、定型化していきそれは参加の為の手続き?となっていく。

その数が一定の割合を超えるとそのムーブメントはマイナーからメジャーへと格上げされる。
どんな表現者であれ興奮はその手続きによって徐々に昂まり『定番の運び』をこなしてお開きとなる。

何故なんだろう………?

その『定番の運び』は見る見る内に伝播し阿吽の呼吸で『時流にノッて行く』のである。
それは今のロックコンサートにも継承され、どんな演者であれ『ノリ方』は判で押したようにお約束ごとで運ばれていく。

それに従う多数派の人達に対してアンチを唱える人は何時の時代にも一定数いる。
拗ねを含みながら『俺達は違うんだよな?』ってな雰囲気を醸す人種である。

古くはジャズだった。
何か?特別高尚なジャンルを気取りながら薄暗い店の奥に居座ってた…。
指先でカウンターを叩いてリズムを取りながら寡黙なしかめっ面でやたら煙草を吹かす……大抵はヒゲを湛えている男達だった。

フォークやロックがメジャーになる頃はその役目はジャスに代わってリズム&ブルースだった。
当然本当に好きで入れ込んでいた人達も居たとは思う……。
しかしそのアンチのポーズは痛々しさがあった。背中を向けながら時折メインストリートのメジャーな流れをチラ見している様なうら寂しい拗ねを感じたものだった……。

本当に好きでエネルギーを注いでいる奴等は『他を気にする暇』なんて無いからどんなジャンルであれ最終的にはスポットライトを手に入れるのだと僕は感じていた。

フォークを演ってる(聴いてる)、ジャズを、ブルースを演ってる(聴いてる)、ロックを(聴いてる)演ってる……どんな曲を演り、そして聴いてるか?なぁ~んて事より、先ずはジャンル、カテゴリーが最優先問題の人達。

それにノリ切れない人たちのアンチのスタンスは妙に惨めったらしいイメージがあった。
俯瞰してみればメジャー、マイナーとジャンル、カテゴリーは違えど近親憎悪の関係によく似ているな?と思った。

僕はそんな風に何処かで人間や物事を妙に冷徹に観察してしまう癖があった。
様々のムーブメントに本腰入れて参加出来ない『引っ掛かり』みたいなもの。
僕の腹の底に居座ったその感覚が無意識に発動してしまうのだった。


随分と後になって……その原因は多数派を占める善人然とした人間達だったんだ?と分かった……。


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