世の中は寝て暮らすより楽はなかりけり
浮世の馬鹿が起きて働く……と残している。
彼自身は……幕府の実直な官吏として結構な出世もしている。
世を拗ねて発した?という言葉より何か?深い趣を感じるのは彼の体験があるからなのか?
75歳まで生きた彼は……登城の途中で転倒したことが原因で死去とあった。
その言葉とは裏腹の仕事好き?だったのかなぁ?と思った。
今、中国に蔓延し始めた『若者達のタンピン主義(寝そべり主義)』は苛烈な競争、報われない努力からのフェードアウト現象。
ソコには…諦観、僻み、拗ねの挙げ句に?……オイラ1抜けた!!……となったもの悲しさ?が漂うのである。
そんなニュアンスと大田南畝の『寝て暮らすより楽はながりけり』との違いって何?と思った。気付いたのは大田南畝は彼の人生で実際には『寝て暮らさなかった事』だった。
最低限度の『生活費』をアルバイトで稼ぎながら余暇は寝て暮らす……。競争に晒される事も無くそのストレスも一切ない。
想像するに……それも時間経過と共に『質の違う苦痛』って奴が来るかもね?って思った。
『退屈っていう最悪の苦痛』である……。
希望が成就する?しない?は別にして……人は『自分の意志で選択する事が必要』なのだと感じる……。
仕方なく『選択させられた道』は当初は楽かもしれないが『その楽』こそが新たな苦痛を生産する様になるのだと……。
親やセンセが教えてくれた道を選択して『借り物の目的』を手にしても……時と共に息苦しくなるのも同じ運びなんだと思う。
キーワードは『自分の意志で選択する』ことなのである。
例え、その夢破れようと……『自分の意志で選択』したという『納得』が手に入るからである。
ドロップアウトのタンピン主義でさえ……死力を尽くした後の納得の上でなら……その人は寝そべりながらも、必ず『自分のネクスト』を探す旅に出ることが来るのである。
死を前に、一番の価値を持つのは恐らく『その人が得た納得』なんだと思う……。
人の目や向こう三軒両隣の狭い社会、ガッコのセンセなどで出来てる空気なんぞで選択させられた人生に……死ぬまで『納得』はやって来ないのである。