サンチョパンサの憂鬱

ムッシュボヴァリーの悲劇

フローベールの『ボヴァリー夫人』……ボヴァリー夫人は近代文学最高のヒロインとされる。女が初めて意志をもって行動したからだ……。

浮気に走りブレーキを失った彼女の凄絶な最期。
淡々と医師の仕事をこなし勤勉だけが売りのムッシュボヴァリーに何の非があるのか?
落ち度らしいモノは何もない。どうして?妻にそこまで裏切られなければならないのか?

昔の河出書房版の後書きに素晴らしい答があった……何一つ道を外さない?外せない?……。
そこまでのエネルギーも意欲も力も意志もない退屈この上ない『その存在』こそが罪なのだ!と……。

名言だな?と思った……。一言で言えば何一つ『面白味がない』、『その存在の耐えられない軽さ』という訳である。

現代版ムッシュボヴァリーと言える人達は多い。
頭の中は『安定と安心』以外は何もない。『最低限度の唯物論』以外に人生にモチベーションを持てない男達である。これって……現代日本社会のボリューム派じゃね?とふと思った。

その精神は、向上心がないのか?執念の領域まで、自分を連れて行けない。

彼等が……何かを成し遂げて見せる!というメンタルに届かないのは何故か?
自分を見捨てない!というプライドの第一条の問題なのだと思う……。

自分を惨めな状態に放置しない……自分に必ずやらせるんだという自分との約束が出来ない……。何故か途中でモチベーションは消失し
エクスキューズが顔を覗かせて来る。

上手下手は別にして『やり遂げる』事から逃げる人は……自己信頼を手に出来ないのだという事だ……。
逃げのプロセスを繰り返す度に、その人は自己信頼を失っていく。

結果、自分の心から逃げる事だけが上手くなってしまうのである。
イソップのキツネの様なメンタル構造がその人を支配し、流暢な言い訳に終始して人生を送る様になってしまう……。

問題は自分が自分に下す命令の有無とその強さなのである。
惨めで無様な体裁を越えて自分にやらせようとする心が……プライドと美学を醸成する。

ムッシュボヴァリーとその系譜の女達は得点より失点を気にして動けない。
従って彼等は良かったのか悪かったのか分からない内に、ずっと0点のまま生きて行く。だから生の実感を得られる道理がないのである……。

人生は刻一刻、自分の持ち時間をマイナスしていく。
0点は死ぬ時……嫌でもやって来るのである。失わない為に動けない0点……それはまるで生きながら屍となる様なモノである……。
人生の価値、醍醐味は最期には同じ0点となる。肝心なのはその『0点具合』なのである。

無事だけが羅列された0点なのか?『自分ならでは』が貫かれた0点なのか?

人生の結果は最期に必ず全て価値を失う。
詰まり誰もが何時か死ぬ……。

生きて在る内のそのプロセスにどれだけ『自分の意味』を散りばめるのか?
ソコにだけ人は自分たる意志を持ち込めるのである……。

毒にも薬にもならない安定、安心な男は……意志を持つ女を退屈させ、飽きさせ、やがては敵意さえ持たせてしまうのである……。
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