シェイクスピアのヴェニスの商人に登場する悪の権化として描かれたシャイロック……冷静に見てみると……少し違ったニュアンスを感じるのである。
ユダヤ人に対する差別意識を取り払うと……シャイロックは勤勉な金貸し?なんじゃないか?……と。
対して、アントニオは無計画にカネを借りて踏み倒している只の杜撰な若者ではないか?
日頃からの不当な差別に苦しんだシャイロックが少しばかり復讐心を抱いたからといって彼ばかりを責められようか?……なんて事を思うのである。
借りて踏み倒しておきながら、貸し手を責める昨今の風潮には些か抵抗を感じていた。
にも増して故無き差別でユダヤと軽蔑していた相手から借りたカネを踏み倒すアントニオは善か?悪なのか?
急に相手に慈悲を求める恥知らず、日頃の自分を省みたらどうだ?……といった感覚を覚えるのである。
胸の肉1ポンドは取るが良い。しかし血は一滴も流してはならぬ!なんて裁判長のこじつけ判決なんかも……自民党のまやかしの範疇のモノじゃないか?
最初に結論ありき。後はその為のストーリーを整えただけじゃないか?
何やら相手がユダヤの金貸しだからと、杜撰なアントニオをこじつけ裁判で助けるといった物語と思えて来たのである。
貸してと頼んでおきながらの約束を反古にした悪徳はどこへ行く?……。
そんな風潮と雰囲気でオセロの様に正義と悪徳は裏表となって紆余曲折を繰り返す……。
ま、目の前の重要な出来事で『正しい事』がそのまんま実現されたという例を僕は知らない。
このヴェニスの裁判の如く……作られた雰囲気で、何度も何度も正義が欺瞞の海に沈むのを見た。
するとシェイクスピアの文学さえ少しばかり趣が違って感じられる様になったのだった。
罪と罰のラスコーリニコフが殺されて当然と決めつけた金貸しもユダヤ人の老婆だったのを思い出す。彼が悩むのは善良な女を巻き込んだ故にであり……手を下したのがその老婆だけならどうだったのか?……なんて事まで考える様になった。
『正義の主張』には様々の面からアプローチしなきゃね?……。
そんな事を思うようになったのはほんの一部だけを拡大鏡で膨らませた正義擬きに何度も痛い目にあって様々の理不尽を味わったからだろう……。
少しばかりは思慮分別らしきものが醸成されたのかも知れない。高く痛い勉強だったと思うけど……。