実は……コレが出来ない人は料理人の中に多く存在している。これは舌の味覚点の数という天賦の才能だから仕方ない。
自分は甘味と塩味の感知が『劣っている』とモチベーション出来てる人は量の経験で覚える事が出来る。
しかし先ずプライドが邪魔する。そして生まれてこの方感じて来た自分の味覚を疑うことは至難の技なのである。
先日深夜のテレビで何故?甘味を付けるのに塩を同時に用いるのか?についてやってた。
人間の舌には甘味しか感じない細胞と、ナトリウムと甘味を同時に感じる細胞があるという。
砂糖だけでの反応と砂糖プラス塩(ナトリウム)の反応を調べると砂糖プラス塩の味付けは砂糖単味の倍以上の面積比率で反応していた。
ナトリウム(塩)を摂取することは太古の人間には死活問題だったとか?だから砂糖と同時に摂らせるように砂糖とナトリウムに反応する細胞が発達したのだという。
だから砂糖プラス塩の味付けは人間の本能欲求に応える味付けだと言える。
あんこの味付けは塩と砂糖と小豆の構成なのに名人のお婆ちゃんの味付けは絶妙であると共に『深~い奥行きのある世界』を見せてくれる。それこそ『舌妙』なのである。
この基本をすっ飛ばして盛り付けだの食材の取り合わせだのに妙な『拘りとやら』に走る人多く……結局、何を表現主張したいの?ってな食卓となる。
『作る為に作ってる人』多く……。
基本に徹している内にモチーフは自然に浮かんでくるモノなんだけど……。
深淵な風情のあんこを前にすれば、新緑の野山の中の庵、蔵の中、幼子、老人、明治時代の洋風パイなどなど……深い基本の処理が施されたものはどんなイメージにも応える力がある。
世界観ある食事を創るには先ず……基本の習得ありきと心得て欲しいと思う。
基本習得には時間のかけ過ぎはないのである。
人として生きて行くのもセオリーは同じ。
人間の喜怒哀楽をタップリ味わいその制御の仕方を体に染み込ませる事が大切だと思う……。
経済的な動機から良い大学、一流企業……そして安泰という『安易な打算』を幼い内から刷り込み過ぎてるんだと思う……。
奇妙キテレツな勝手三昧の創作料理見たいに時が経てば小賢しさしかない『主張と表現のない』ありきたりな大人に仕上がるのである。
自分を愛する事はどういう事なのか?
そしてそれが他者を愛する事とイコールになる。
『深みあるエンパシー』は人間的基本構成あって初めて醸成されていくんだと思う……。
全ての喜怒哀楽が経済発想で出来てるならば何処まで生きても『損得と勝ち負け』以外の価値観には辿り着けないのである。