何故か?と思いながら気付いた事があった。
彼等は確かに楽しそうに振る舞ってるけれど実は『楽しくない』んだと……。それが違和感の原因だったのである。
時折フッと黙り込む瞬間に見せる彼等の顔はとても寂しそうに見えるのである。
『無邪気な善人らしい言葉』は休むことなく行き交っているのに……。
会話が途切れる事を極端に恐れる様に彼等は一様に『喋らされている』のだった。
メンバーは皆、善人然としてイジメを働く様な人は見当たらない。
『そんな毒物』が少しも存在しない善人の『綺麗だけで出来ている』といった風情故の違和感だったのである。
単純おバカの教師が、執拗な緩い恫喝で作り上げる人為的な『良いクラスの風景』と同じ様に……その雰囲気には何処と無く『無理がある』のだった。
善人を気取った疑似善人達に有りがちな
『毒をひた隠した空気感』は否応なしに『不自然という違和感』を醸し出す……。
詰まり彼等メンバーの誰一人『安心していなかった』のである。
塩の隠し味が利いてない甘さだけで出来ている料理見たいに恐ろしく表面的な通りいっぺんの会話が何処までも延々続く……。
悪人が登場しない映画の様に……締まらないストーリーが時間だけを消費し続け、閉店の時間が訪れやっと彼等を救済するのである。
そんな会合は自主的にエンドを迎えられない。彼等は楽しくて堪らない筈だからだ。
そんな会合が退けて店内には健全な静寂が訪れると……トンでもない疲労感がいっぺんにやって来る。
水清ければ魚住まず……成る程ね?
自分の中の悪徳や毒を無いことにする人は面する人を息苦しくさせる。
人間の悪徳や毒こそが人を共感させ安心させるからである。
お互い毒や悪徳あれど、それを常識の内に制御出来ますよね?というコンセンサスこそが人の信頼というものだからである。
自分って仕方のない奴なんですよ!おやおやあなたもですか?お互い困った者ですなあ?
から地に足ついた付き合いは始まるものである。
人間は綺麗でなきゃ駄目なんじゃなく、人間は否応なしに物心ついた時から既に汚れてる……だからこそ綺麗で在りたいと願って生きるから救われるのだと僕は思うけど……。