何かとピンボケコメント多発するコメンテーター。青木理氏、玉川徹氏、田崎史郎氏、田嶋陽子氏……数え上げれば枚挙に暇ない。
これは個々人の『主眼』の違いが招く悲喜劇である。
青木氏を例にする。
彼は……1960年代の学生運動華やかりし頃に醸成された左気味の『凝り固まった世界観』……を何時でも何処でも何にでも『適用して解説』しようとする。
『問題そのものの諸事情』など目もくれず……先ずご自分の世界観を強化するためにその問題にコメントする。
正直言うと議論の邪魔にこそなれ貢献する所は軽微なモノになる。
田崎氏は『保守政権擁護』、田嶋氏は昔70年代の旧き男女対立をベースにした『女性権利擁護論』にどんな問題もそこへ運ぼうとする。
教育委員会にせよ官僚達にせよ彼等は『自己組織の安全維持管理』を『主眼において』からその問題を主眼に沿うものとする為にコメントする。
だから……少年少女が死んだとしても『イジメはなかった事』を当たり前の様に発言する。
議論は民主主義の根幹をなす。
しかし、この様な『議論をさせない人達』が多数派となった様相のこの国は『不寛容の人達が寛容の人達を凌駕』してしまったんじゃね?……と僕は感じるのです。
この国は『民主主義の自殺』へ疾走を開始した様に思う……。
『議論をした事にした予定調和』が指摘されて久しい。
不寛容の反目する勢力同士の疑似議論?
は何も見付けられず無策に流れ続けるのみである。
となれば、勝負は数の大小に集約される。
議論なき民主主義の多数決は必ず愚策を導く。
悲しいけれど人間社会は20%の賢人と80%の凡庸なる愚民で構成されてるからである。
上記の事情を鑑みれば……我が国の民主主義は愚策しか導けない閉塞状況に追い込まれてる……僕はそう感じます。