サンチョパンサの憂鬱

価値観は他者と比較すると堕落する

例えば単純に『優しい』と見えるとする。

何事も正負の性質を併せ持つから優しいの裏には優柔不断が付いて来たりする。
ぶっきらぼうがその奥に繊細なシャイネスを秘めていたり……とか。

表にして見せているキャラクターを使って人は日常化生活をこなしている。その人が一番ストレスなどのエントロピーを押さえられる
と判断している姿だからである。

通常他者から『思われている自分』の裏にある『実は私はね?』という『自分の本質』を見付けて貰った時、人は無上の喜びを得る。
真剣に深く覗いて貰わないと見えない部分だからだろう。

見付けてくれた人は、通常の人より深く興味を抱き自分に関心をもってくれたのだから……
人は発見者を親和の情で迎え入れる。

日常の世間向けのスタイルは……人によってあらゆる善意、悪意の感情によって脚色や書き換えが行われる。元々が『良くも悪くも受け取れる範囲』での無難さで作られているからである。

その評価は自分の気分以外に実質的な影響はない。だからそうやって人は『意図的な普通の仮面』を装着して暮らす。その結果人は無難と平穏を得るのである。

お互いの理解度は……どれだけの領域をどの深さまで知り得ているのかによって決まる。
オシドリ夫婦と称賛されたカップルがある日突然離婚なんて事になるのは……お互い表層の部分で無難なやり取りしてただけの関係だったのだろう。

煮詰まった問題はお互いの良い顔だけじゃ解決しなかったりする……お互いの深層から本性が吹き出せばあっという間に瓦解する事になることも多い……。

人間の価値観にこれが最高、最大に正しいなんてものはなく各々の価値観は表現するのに全く独立した自由を与えられている。
しかしまた……その受け止め方、感じ方も各々に独立した自由がある。
その表現者の満足を他所に……人を困らせたり不快に導く価値観とやらもある。

相容れぬ価値観が軋轢を起こすとき……必ず下世話な欲求に近い方の価値観が勝利する。
人間界のルール、マナー、表現etc.は本能から遠ざかるモノほど洗練を手に入れる。

しかしその『洗練』は本能的な『あからさま』な手法にいとも簡単にねじ伏せられる。
洗練はあからさまに我慢できないが、あからさまには洗練は理解できないから一切気にかけないで済むからである。

政界でも公家集団が野武士軍団に蹴散らかされるなんて例がある様に……。

なんて下劣な!と怒り心頭となれば……相手と事を構える事なくソコを離れる事だ。
事を構えず同じ土俵に立たないこと……それが下劣な価値観への唯一の対し方なのである。

降りていって勝負する?それは蛮勇である。
打ちのめされるのが解っている事は……避けて逃げる事。それが自分の価値観を守りプライドを守るのである。

価値観は誰かのそれと比べて優劣を競うモノじゃない。
そっと懐に大切に仕舞い込んでおきましょう。それは自分の未来設計図なのだから……。
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