言葉とか記述の論理にタブーを設けてマニュアル化しなきゃならない『常識』って意味ある使い方ができるの?……と正直感じるんだけど……。
一方でそれを金科玉条の如く振りかざし議論を深める努力もなくいとも簡単に『敵と見なす短絡思考』である。
『ポリコレファン』に監視されその教条主義を強要される側の人間も生き辛いけれど……。
その『教義に』盲信的にがんじがらめとなってるポリコレファン自身も『そのご立派なスタンス』によって自分を金縛りにしてしまってる生き辛さに気付けないのだろうか?
ポリコレファン特有の……人間には二種類の『敵か?味方か?』しかいないという人間観、世界観は何故?醸成されてしまったんだろう?
大きな原因は……人間同士の『過剰防衛本能』だと思うけど……。
肝心なのは……どうして人々が『過剰防衛本能』を必要としだしたのか?である。
おおよそ90年代初頭までは『余裕と遊びを持つ競争社会』だったんだと思う……。
労働分配率(企業の利益中に占める自然人の取り分)がドンドン下がりだしたそれ以降の時代では『勝者か?脱落者か?』
という『遊びと余裕を失った競争社会』に変質してしまった。
勝負の結果がシリアスに運命を色分けし容赦ないものに変わっていったからじゃないか?……と僕は感じる。
家庭での十分なコミュニケーションの余裕を失った親世代の空気が……子供世代を否応なしに『緊張状態に置いた』んだと思う……。
私見だけどその頃から……上手く運んでるよ!ウチの家族という『演技性幸せ家族』が多産されていった様な気がする。
親の背中に見える激烈なストレスのシリアス競争社会。
嫌が上にも子供達の『過剰防衛が日常化』してしまった?という流れである。
言葉での綺麗事はもう良いから……。
新制度としての『負けても大丈夫ですからね❗ネットワーク』とか?
先般書いた『モヤイ』の様な、全財産失っても『ご飯は必ず食べられますよ❗ご互助組織』とかを整備しなきゃならないんだとより強く思った次第です。
要するに『安心して喧嘩して』、『安心して負けられる』社会のOSを整備しなきゃ……ハリネズミの様な人間達のトゲトゲ社会はもっともっと鋭利なモノになっちまう。
ポリコレ調べてて……
負けても『安心出来るメンタルの社会実現』……その為の社会整備の為の『実際の行動』が必要な時代なんだと感じた……。
それももう、待った無しで❗