ここでいう餓鬼は年齢じゃなく、メンタルが未成熟で幼稚なまんまのという意味だけど……。
そんな人達を見れば、何れ『思い知るだろう……』と、突き放して放置するしかないのだが……。
『思い知る』スタイルであろうと『知ってくれる』なら良いけれど、その前に完全に『折れてしまう』か『モンスターなクレイマー』となって居直りを決め込む?人間となるか……そんな流れが現実である。
一般的には子供時代に周囲の愛情を十分に受けないと不全感に悩み、自己肯定感を抱き辛くなると言われる。
幼い時代に、他者に愛された記憶が自己愛を抱かせてくれる。だから自分を肯定的に見れるし他者にも肯定的な態度で接する事が出来る様に……なる。
しかし、客観的に言えば、如何に親が情感豊かに愛し育てようと、やがて大人になれば自分が自分を愛でながら進化させていくしかないのが人生である……。
『愛されなかった記憶』……その原因を
本人が無条件に『原因は自分にある』と無意識に決め付けている事に厄介さがある。
原初的に『自己嫌悪を植え付けられている』状態だと思う……。
しかし、前編で、自己嫌悪が自己愛への起点、端緒となる!と書いた……。
そんな人達に僕は言う……。
三十迄はその体験的ハンディキャップを与えて貰えるかもしれない。
しかし世の中、ソコからは『だから……ソレが何?』となるのだ……と。
『何故?自分が悪い!』と決め付け自己嫌悪しながら生きてきたのか?
自己嫌悪と正対し、その正体を突き止めなければ何時まで経ってもホントの『自分の人生が始まらない』……と。
トラウマの程度には細心の注意を払うことを前提にだけれど……。
同時に『自分の未来に本気で望み願う目標』も必要となってくる。
未来目標を持つと『その自己嫌悪』ってのが最大の障害だと気付けるからだ。
僕は人と話してると良くアドラー的だと言われる。何にしても最後には自分の未来目標重視だから……。
自分ではヴィクトール・フランクルの『意味論』に近いと思う……。
自己嫌悪であれ自己不信であれ『ソレも自分』である。何か?意味があるから『自分に備わっている』のだと考える。
自分の事を辿々しく知っていく旅が人生だと……。
仏教者の究極の目的も『己事究明』……自分とは何者だ?を知ることだというからあながち間違ってはいないと思っている。
鬱々と自分を嫌悪しながら『失敗体験』ばかりを自分に味あわせてる自分に……『自分って何で?』という興味という錠剤を一粒飲ませる事から……自分への旅は始まる。嘆くなら嘆くで『本気で嘆きなさい❗』って事だと思う……。
気が付くと……今、僕は他人から放たれる悪意の視線なんぞに構っては居られなくなっている。
とりもなおさず……『自分の事に多忙』を極めているからである……。