人生百年時代と『なってしまったね?』……先日親友とそんな話をした。
六十歳と言えば死んでもおかしくないというかソレが普通だった時代が戦後暫くまであった事に今なら驚くけれど…。
55歳だった定年が60歳に、65歳に、70歳に……政府は75歳まで現役で働いて欲しいみたいだね?……こっちだってお粗末な年金事情を考えればそれも現実的な選択肢となりつつあるよね?……と。
んでね?100歳まで生きるというか?『生きる羽目になったら?』……60歳って老け込む訳にはいかなくなる。
二十歳から四十年生きてやっと60歳、ソコまでと同じ長さの40年生き抜いてやっと死ねる訳だから……と。
成人してからの自己責任での人生の折り返し点は60歳なんだぁ?……と今更ながらに驚いたのだった。
すると……退職金だの年金だので、カネ計算だけで『残り半分の自己責任の人生』を組み立てる事には無理がある?
何より『生きる喜び・実感』をどの様にして得続けるか?という問題である。
父は94歳迄生きた。
病院とか自宅で寝たまんま一日を過ごす様になったのは最後の三年位だった……。
父はことあるごとにその間、『一日の長さと退屈』を嘆いた……。
兎に角長過ぎるのだ!……と。仕方なく?自分の人生の意味を自問自答しては僕にも父の人生を『どう思うか?』なんて聞いてきたりもした……。
そんな長さの人生を想う時、当然カネの問題をナメるわけにはいかないけれど……『生きる意味・喜び』となれば『自分の内側から生み出す必要がある』よね?という話になった。
60代で早くも『終活?』だなんてイッパシ生きて来たつもりの御仁は多いけれど……早計なんじゃね?と感じるのである。
今の肉体、メンタルで想像する80代と実際の感覚全てが違うんじゃないか?何より疎外感・孤独とか?肉体の衰えとの戦いの過酷さとか?
そんなこんなを話してて辿り着いたのは、覚悟を以て自分に『現役たる思考』を命じ続けることしかない!という結論だった。
勿論、思考だけじゃなく出来得る限りその思考にもとづいて社会に対して行動し自分の現実に働き掛け続ける事だと……。
枯れ木の様に立ち尽くして……何もせず、何も悩まない?それは人間として生きてるんじゃなく、ホモ・サピエンスとして『生物学的に生存している』だけに過ぎないのである。
そんな『老後イメージ』は恐らく若い人が余りにも安易に設定したものだと思う……。
良くも悪くも……『人間は思考する』のである。
身体的に支障を来せば何より頼りは思考する事だとなる。
60歳……成人によって親からの庇護から巣立ち始まる自己責任の人生……その折り返し地点が60歳だと設定すると……その年齢は『もう』なのか?『まだ』なのか?……そのどちらを選択するかは『その人の生きる意欲・人としての生命力とか価値観次第』なのだと思うのである……。