サンチョパンサの憂鬱

昼下がりのサンチョパンサ(2)……不作為の作為(不真正不作為の罪)

法律と道徳との間には相当の範囲がある。

しかし……元々根幹的道徳(例、人を殺してはならない等…生きるのに必要不可欠な大きな道徳)に拘束力を持たせたものが『法律』なのだから出自から言えば法律も道徳なのである。

最近、面倒臭い道徳論を捏ね回す様なテーマばかりを書き連ねて来て……何故なんだろう?とふと思った。

無かったイジメが突如あったかも?に変節する教育委員会とか?
旧統一教会との関わりの何が問題?と突っぱねる態度から急変し、『関わりを断たねば離党して貰う』とこれまた見解を激変させた自民党とか?

イジメにせよ?洗脳による脅迫とか詐欺めいた献金という名のカネの収奪にせよ……それを横目でチラリと見て知りながら傍観者として全く預かり知らぬでやり過ごそうという態度……醜悪の極みである。

イジメる少年少女達から議員のセンセに及ぶまで『最もズルい道徳の不履行の方法』が蔓延し、ニッポン社会病の感ありとなっている。

その一部始終を見聞すれば『嘘でしょう?』となる事象が日常的に頻発するに至って久しい……。

旭川の少女イジメ自殺における教頭も校長も担任教師も立派な『業務上過失致死罪』である。
その因果関係を証明し切れない?事が彼等の『不真正不作為の罪』を問えないネックとなる。

『何もしなかった事』によって、その時は生きていた少女が今は死んでしまってこの世には居ないという事実……。

そんな『バレなきゃOK?』、『法律に引っ掛からねばOK?』というレベルの『立ち回り多く』『そのノウハウ』の源流には何があるのか?と嫌でも考えてしまうようになった。

少女に凍え死ぬ事を選択させた『直接的行為』を教育委員会も校長、教頭、担任教師も『何もしていない』……。

母親がそのイジメの『継続中』のとき……職務権限によって救済を願い出たのに彼等は『何もしなかった』のである。確かに彼女を死に至らしめた『作為はない』のだが……?

作為的にイジメを演った少年少女達と『何もしなかった大人の職務権限というモノ』……。
『罪の大きさ・深さ』って一体どうなんだろう?

イジメの傍観者となる多数派の少年少女達。
『触らぬ神に祟りなし』と不作為に徹する。
何もしないことによってイジメに加担する生き方に、日々磨きがかかるばかり……。

社会を上げて『深い罪の消極的加担者』を育て上げていないか?
人が死のうがそんなの関係ネェ!と『不作為の盾』を掲げて保身の砦に閉じ籠もる生き方……。


議員として好き嫌いは別にして……河野太郎の『目利き』って凄い!と思った。

詭弁と信教の自由という法律の上澄みの建前論を駆使し、『民衆の忘れっぽさ』頼りに、逃げ切りを謀るセンセ連中の一連の動き。

そのアキレス腱となる急所ポイントは何だ?!と見抜き『迅速に行動』を起こした。
信教の自由を語る余地を排除して……その『団体の行為・行動の正誤』のみを法律で問うという卓越した試みだと思った。

閣僚に就任したその日にその目論見を発表するという迅速な行動。
消費者庁という権限の範囲を超えるモノも先ずは『ご議論いただき』……担当範囲を超えるモノは関係省庁へ『繋いで』解決をはかって行く……と。

議論の拡大はすれど……問題の矮小化への試みは絶対許さないぞ!……という不退転を期している確信犯だと思った。 
その結果……社会から寄せられる被害の相談は日々増加……。

『不作為による風化』への試みは許さない!
という計算し尽くされた深謀遠慮……。


『人の心を読む…能力』こそが頭の良さという茂木健一郎さんの話を前編で書いたけど……。

不作為による逃げ切りを謀る者の心も……どうせウヤムヤ?になるぜ?という民意、国民の心も河野の太郎ちゃんは読み切っている……。
自民党政治家の中で一頭地を抜く『まともな行動振り』だったね……?頭、良いんだね?


国民は欲求不満のガスを一気に抜かれ、チンケな議員のセンセ方は『法律と道徳の狭間の逃亡場所』を一気に塞さがれてしまった。

そんな逃げ道は『現実社会から寄せられる様々な被害の実態』によって見事にシャットアウトされたのである。

見てみぬ振りの『不作為の傍観者の罪』は暴かれる(必ずバレる!)という一罰百戒効果は今のところ上々の効果を生んでいる。

不作為の作為を行う者は必ず『言った言わない』、『どうだったか?忘れた』なんて曖昧世界に誘導し……相手が諦めるのを待つ手口に走る。そんな『ウヤムヤこそ彼等の最も好む寝床』なのである。

長い間……そんな生き方を『上手く演る』と翻訳しながら生き長らえて来た国……ニッポン。

目が虚ろに泳いでる……。
私は骨格のつもりだ!と組閣前に聞かれもしないのに自認の弁を高らかに放ってた閣僚の御仁の正体見たり枯れ尾花?

『不真正の不作為』って奴の罪の大きさが暴かれる時代が到来したのだと思う。
『長らくの停滞の潮目』が今、変わり始めたんだと僕は思いたい……。

『何かを行い何かの価値を生産する』以外に自分の為にも他者の為にもなることなんて出来ない。
『何もせずして他者から引き算する』って……罪を犯すことにさえ横着優先?
それって?……人生、上手く演ってるのか?

他者ばかりを窺ってた目線を自分に戻す時が今!この時………。
不作為の作為の罪は罪を犯すから罪なのではない。自分のその罪を知らないからこそ深い罪となるのである……。






名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事