サンチョパンサの憂鬱

必要のみに埋め尽くされると……

意識ある時間が全て『必要のみ』で埋め尽くされると人間は情感が疲弊する。
貧乏人が殺伐となりがちなのはそんな理由からである。

有用か?、経済的価値があるか?、機能的価値があるか?……そんな功利主義をベースに判断、行動を続けると何処かで、人間的な潤いは無価値となり選択から外される様になる。

拝金主義なんてその功利が行き着いた成れの果てなんだけど……少しずつの変化故に気付く機会を失い、気がつけば……後戻りが許されない?段階に踏み込んでいる。

フクシマの原発は誰もがメルトダウンを想定しながらも中々その『当たり前の判断』を認定しなかった。
当初こそ大学教授とか何処やらの知事だった奴が反対のパフォーマンスをしたけれど……あっという間に封じ込められた。

停止、後退は今迄の投資が無に帰する?からと前進しか許されない風潮が醸成されてしまっている。
功利主義は後戻りを選択出来ないという宿命を背負っているかの様だ……。

ま、人間の欲得の論理なんだけど……昨日まで稼いだカネは全く無いかの様な尽きる事の無い走りっ振り。
ある意味、見事である。

全ての思考、行動は功利的な判断で出来ていて、その心理は貧乏人と全く同じで、選択の余地を許されない。
情感は恐ろしく貧しいものとなっているんじゃないか?……そんな事を思った。

カネの様な功利的数字を目標にすると……キリがなくなる。生活全ては『必要で埋め尽くされる』のである。

数字的には稼がなくても良い環境でも……稼がないで過ごす事イコール損失だと判断を導く欲得の数式が人を急き立てるのである。

僕は……アホだから若い時分に、社会正義だの義務感だのを優先して非功利的な判断で行動した。いわば過去の負の遺産を未来でゼロに近付けるという選択だった。

仲間の内の『誰か?』が取り組まねば全員に社会的死刑が下されると考えたからだった。それが僕でなければならない理由は何一つなかったけれど。

僕は……人から嫉妬されるとかなりの人に指摘された。
それは何故か?とずっと疑問だったけれど最近その謎が解けた気がする。

功利主義で目に見える数字化出来るモノばかりを追及して生きて来た人達には漠然とした『後ろめたさ』があるからだと分かった。

無闇やたらに、無用の用を蹴散らかして生きて来た人達は、やっと自分の情感の貧しさに気付き始めたんだと思う。

僅かばかりの退職金と年金を打出の小槌かの様に過大評価して生きたけれど、気が付けば……心が寒々とする環境が見え始めたんだと思う。

ここまで生きた彼等のベストアンサーは『何もするな!』、『動くな!』だったのである。それが一番数字の目減りを防げるからである。

彼等の寂しそうな顔は……人間の心は数字だけで出来てない証左である。
一見不必要なモノが実は絶対必要条件だったりする人の心の複雑さ……。

親和、親愛、扶助、共感……功利主義では導けない、形而上の価値観。
独りを確立し、独りを味わう段階に入ればむしろ今迄の不必要こそがメインテーマとなる。

カネで買えないモノがある。

これは理想論ではなく切実な現実論なのである……。
納得という心の満足は……通帳の数字を追い掛けるほど単純で楽なモノではないのかも知れない……。
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