サンチョパンサの憂鬱

作為には……時限装置が装着されている。

メンタルの似て非なるモノ、相反するメンタルの質的な違いとその絡み等をクドクド書いてきた……。
書いていて『メンドクセェー!』となったのが正直な気持ちである。

音楽や料理に於いて優れたモノはシンプルで自然であると書いた……。
メンタルは奥深い懐を持つものだけど……そのメンタル同士の出会いと流れは、状況と人的要素含めて、座り良くまとまっていく場合は、とても自然にシンプルな絡みで進むものである。

メンドクセェー!となる絡みには必ず……人工的な作為とか駆け引き技術が混入している。
そうして縺れてくるとお互いが感情を動員してもっと鬱陶しく面倒臭くしていく流れが出来上がる……。

卑小な人ほど、簡単でシンプルな問題を捏ね回し、人工的な作為を弄して複雑怪奇に縺れさせていく。
そんな人はどうしてもそのベクトルを改められないという特質を持っている。ま、頑迷そのものである。

それを続けていると、改めるは敗北だと いう観念にガンジガラメとなってしまい激した感情を武器に……頑なに解決にソッポ向いてしまう様になる。。
いつの間にか駄目にすることこそ本望だ!とでもいう様に……。

節度を旨とする人間は、事の成就を諦め、生産性ゼロのエントロピーから解放されるべく次第に距離を取り、その人間と問題から離れていくのである。

頑迷は結局、散々複雑怪奇な道筋を辿りながら『何にもならなかった結果』を導き元の木阿弥に帰するのである。
やたら時を失い、人を失い、その人はまた一つ頑迷に磨きをかけて寂しくなっていく……。

ある程度の歳になるとそれがルーティン化している人になる。
『ゴメンナサイ』を言わない事だけがその人の信条かの様になっていて、自分の不都合は全て自分以外の所にあるとする生き方は完成の域に入る……。

関係が自然な運びとなるか?否か?……は直ぐ判断できる。
その人が間違えた時、極、自然に『ゴメンナサイを言う人』ならばその関係は実り多いモノになるだろう……。

元々、人は簡単に間違う。
そして自然にゴメンナサイを言う。極めて簡単な事だ。
しかしまた……その当たり前が当たり前に進まないのが人の世の常……。
『その不自然さこそが人の作為』というものの仕業である……。

テーブルに皿を置く……自分に向けられた華やかな笑顔……その表情一つにさえ若い女の作為が色濃く見えてしまうものである。勿論無意識的なものである。

短い人生体験の中にさえ既に彼女の『作為の成功体験』がある。
そうやって『上手く演る術』を人は学んでしまうのだろう……。

無作為という……『自然というのは難しい』のである。
良い意味で自分を知り『自分というものを諦め受け入れた人』しか自然な振る舞いは出来ないのである。

作為の笑顔で始まった付き合いは……また作為によって瓦解していく定めを同時に、仕込んでいるのである……。

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