サンチョパンサの憂鬱

『自分が知っている自分』と会話する

聞かれもしないのにペラペラ演る人間は……『自分が知っている自分』に狼狽している。

しかし、どう理を尽くしても自分は騙せないから人を騙しに入る。
知らず知らず、少しずつ少しずつ……被害者の自分がその人の中で育っていく。

そこまでは弱い人間故にさもありなん?だろうと思う……。

自分騙しに居心地悪さを感じて我慢出来ずに……そこで潔く思い直し……自分の引け目を眼前に引っ張り出して直視するのか?闇に葬るのか?によってその後の人の自己信頼は大きく変わっていくんだと思う……。

この『自己信頼』という奴はあってもなくても、要は……上手く演りゃ良いんでしょ?と思う人は被害者道へとまっしぐらに……。

自分騙しに居心地の悪さ、尻の座りの悪さを看過出来なくなった人は……やっと自分の額面通りの加害者へと復帰を果たす。

こんなの書いてると……宗教書でも書く気かい?と自分にツッコミたくなるけど……。

終活?なんてのが頻りに言われてる。年賀状を止めましょう。友人関係も煩わしさが圧倒的に多い。これも止めましょう……なんてなんて……。

イイ歳になったら……煩わしくなる友人関係?面倒なだけの年賀状?そんなの一体何のために演って来た事なんだろう?
付き合いたいからの付き合いじゃなく、付き合う為に付き合ってた訳ね?……と週刊誌に一人ツッコミをかましてみれど……。

イイ歳になると……『自分に向き合う力』を必要とする様になるって事だろう。面倒なことを面倒だ!と言える強い自分が必要なのである。

イイ歳になるまでに、自分を加害者とする強い内省力で鍛えてきた心を用意しとかないと……あっという間に被害妄想にやられてしまう様な気がする。

被害者となりツルんで何とか自己正当化を確保出来た人がいきなり終活し、ツルんだ人達を整理していく。孤独増す中でそんな事が可能なんだろうか?……と思った。

否応なしに体力は衰え物理的な動線は短くなる。稼ぎが途絶えるとなれば生活にかけられるコストもタイトにならざるを得ない。

そこで被害者演ってた人達が出会う人生初の孤独と退屈となるらしい。
習性となってしまった群れを離れて突き付けられる孤独と退屈……イヤでも内省せざるを得ない条件が整う……。

するとかなり多くの人が老人性鬱病を発症するという。『一体何だったんだ?』という思いと『一体どうなるんだろう?』の戸惑い。

念願の自分一人になり、思いの限り自分を考えられる環境は……ある種の人間を追い詰めてしまうという哀しさである。
その時……頼れるのは『自分が知っている自分』以上のモノはないのである。

自分に嘘を付く……その嘘で出来た自分を使って出来た関係は……終活段階になれば切り捨てられるだけのものとなる……。

労多くして得るものは退屈と落胆と孤独?……散々騙し生きてきた自分を……一人切りで正対し見つめ直すのはことのほか怖い事なのかも知れない……。
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