サンチョパンサの憂鬱

一生懸命の努力は必要か……?

この国には『努力至上教』とも言うべき盲信が今も根強く信奉されている。

んじゃ?お前は努力は要らないって言うのかい?と問われれば『事と次第による』と応えるしか無いと思う……?

自分の本意とか本心に基づかない、親やガッコのセンセによって刷り込まれた価値観念に支配され……ソコに自分を押し込んで修行の如く『努力を強要』する事は全くの無意味以上に……自分自身をスポイルする事になる……。

コレが演りたい❗❗とこころから望み打ち込む場合……その人間には『努力しているという意識なんか無い』のである。
もっともっと……どうだ?どうだ?どうだ?という自分の心に突き動かされている状態なのである。

コレも一般的に言われる努力と言われれば努力って事になるのかも知れないが……。本人からすればもっと、もっとっていう『自分の本能の欲望の仕業』なのである……。

誤解を恐れずに言えば……大部分の人間は自分の力が向上しないエクスキューズに……この『努力とやら』を口にする場合が多いなぁって思う……。それはね?努力が足りないんじゃなく……才能が足りてないのである。

『一生懸命演ってるんですがねぇ?』なんて言いながらソコに安住を決め込むの図である。

でしょうねえ❗才能から言って向いてないもの❗なんて口が裂けても言えない。黙してその場を後にするしかない……。
頑張ってたら良いことありますよ?なんていう嘘も僕には持ち合わせがないから……。

自分の本気の欲望で演ってる一心不乱には……努力とやらの薄っぺらさや嘘臭さが一切ない。
下手するとその人の姿に……自分の怠慢まで余すとこなく暴かれそうな気配さえ漂い来るものである。

自分以外の何かに『演らされてるのか?』……自分の本心が求める事を自らの意志で『演っているのか?』……。

皮肉なことだけど……努力なんて言葉が必要ない人間に限ってそんなの当たり前と『努力してる』っていうのが本当の所だろうと思う……。

意味のない努力を気取りながら誤魔化すくらいならば……一切ダラケて過ごす方が余程意味がある。
自分の本心にヒットする『何か?』ってのはそんなリラックスした時空間にフッと降りてくるモノだからである。

ネバナラナイ❗ねばならない❗……そうやって短兵急に自分を追い込むから……刷り込みの借り物の値観に自分を追い込む事になるのである。

自分の『本心は人生のマップ』なのである。焦らずユックリと真贋を確かめながら見付けたら良いと思う……。
そうすれば暑苦しいだけの『努力なんて言葉』は一切必要無くなるのだから……。
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