確か、昔に高校の保健体育で習ったのを覚えている。
ふと?このフロイトさんの説で、最近流行りの『推し活』ってのを考えたらスコーンと腑に落ちた……。
推し活に夢中の人は、自分を正面から観察する勇気を喪失してしまっている。自分から自分の関心、興味を逸らせる為に推しに熱中し冷静な自分の視線を自分から遠ざけるのである。
世間の他者達のなかで慄然とした濃度の濃い不安をひた隠しながら何とか心のバランスを取ろうとする痛々しい人間像を想像すると、彼ら彼女等の『推し活』って奴も謎が解ける。
依存とも言われる自分じゃない他者に熱中する姿は観ていてとても哀しい気分にさせられるのである。
心理学者でもない僕が分析モドキしてアレコレ喋っても仕方ない。
大切なのは何故?彼等はそこまで自信喪失し、我先に他人の影響下の軍門に下るのか?
ましてやあたかも志願して、さも?自分の意志でその推し先をチョイスしているかの様な演技までしてである。
正面から真っ正直にアレコレ思考する人を『イタイ人!』と揶揄するようになったのは90年代半ばだと宮台真司さんは指摘している。
イタイ人認定されると『群れから浮く』……それは何をおいても『避けたい事態』となってしまったと。
そんな空気の中でせめて自分を主張出来るのは『〇〇のファン』位しか選択肢が無くなったというわけである。
やって来る人達が時折意見めいた話をしたりする。『何で?そう思うの?』と聞いた途端、彼等の表情は苦痛に満ちた歪んだ表情となる。
そういう人が口にするのは『流れをハズさず』、『そこら辺が貴方の考えなんじゃね?』と推測される論を先回りして述べるのである。
何処まで話しても『私は何故?そう思うか』に辿り着くことはないし、辿り着ける筈もなく。
長く世間は『従順であることを素直』と乱暴に翻訳して演ってきた。強要する側の本音はひたすらに『扱い易いだけ』の理由なんだけど……。
そうやって長い事、無味無臭のやり取りをしている内に精神を病んでしまう人が増えている。
『実感のない時間』がボディブローのように
心から潤いを吸い上げて行く?そんなイメージだと思う……。
すごく狭く小さなターゲットに『熱狂する自分に熱中する』ことで自分の不安はないかの如く錯覚させてしまうのである。
頂き女子リリちゃんはホストに勝たせ成長させる?事に自分の全てを捧げた。良し悪しは別にしてそのエネルギーを向ける先が自分であったら?……かなりのことを成し遂げたかもしれない?
テクニカルとかスキルの問題じゃなく、メンタルのベクトルが自分を向かないのは何故?
『どうせ自分なんか……』という自分への諦観がベースにある。頭は悪くないものね……。
推し活に血道を上げてる人達……『一生懸命自分自身を演ること』でこれ以上『自分はダメだ!という思い』をするのは一ミリも嫌!!と懲りてしまった哀しい心をひた隠す。
僕は『努力教信者』じゃないけど……演る前に諦めてたら勝てるレースも勝てないことは知っている。
目一杯自分を叱咤激励の末に敗北した結果は僕をとても清々しい気分にさせてくれたのである。
推し活に夢中になってる人たちのすべてがそうだとは言いません。予めお断りしておきます。
幾つになっても『自分に対して推し活してる人』はとても素敵な顔をしている。
それは実感ある素敵な人生を生きているからだ……と言いたかったのです。