どちらかもいうと、寺より神社に惹かれていたし、比叡山にまで来るとは思っても無かったのですが、滋賀県二日目は比叡山延暦寺へお詣りする事にしました。
ネットで調べると、東塔、西塔、横川があって、比叡山巡りは周るのに6時間くらいかかるとありました。
比叡山自体が霊山で、御神体であり、御祭神は大山咋神です。
こちらは、鐘楼です。
比叡山自体が霊山で、御神体であり、御祭神は大山咋神です。
大山咋神は大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の御子神と紹介されています。
大年神は饒速日命です。
天知迦流美豆比売は天(あめ)=天に、知迦流(ちかる)=近付く、美豆比売(みずひめ)=水の姫。
だから、瀬織津姫様の事なのかな?
寺巡りといっても、建造物をみてまわっているわけではなくて、どちらかというと、神様のいらっしゃる神域の氣を感じるために、寺巡りをしている感じがしていて、周りながら神々に想いを馳せます。
仏教で祀ろうと、何で祀ろうと、名前が何であろうと、神様は自然に満ち溢れていると思ってます。
本物はお金を要求せず、言葉巧みに集金する教祖がいません。
人間に必要な全てをただ与えてくださっているのが神様ですね。
この日は義弟を誘い、三人でお詣りです。
車にて比叡山ドライブウェイに進み、先ずは東塔に向かいます。
こちらは、鐘楼です。
比叡山スタンプラリーというのがあって、所々で摩訶不思議伝説が紹介されていました。
根本中堂です。
改装中でして、中に入ると、2029年完成予定とありました。
以下Wikipediaより
伝教大師最澄が延暦4年(785年)比叡山上に草庵を結び、3年後の延暦7年(788年)現在の根本中堂の場所に小堂を創建したのが始まりとされ、草庵はのちに一乗止観院と呼ばれた。
本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので、「不滅の法灯」と呼ばれる(焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けた)。
ネット画像より引用
中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。
比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
根本中堂の向かいに階段がありました。
こちらの階段を上がると、比叡山の総門の役目を果たす重要な楼門があります。
こちらが、文殊菩薩が祀られている文殊楼です。
大書院です。
大書院は1928年(昭和3)の秋、昭和天皇のご大典記念と比叡山開創1150年の記念事業として、東京赤坂山王台にあった村井吉兵衛の邸宅を移築した純日本式の建築物で設計は武田五一。
書院造りを参考にし、当時の日本の最高技術を総動員したと言われ、用材は木曽の檜が中心となり、今では貴重な建材が数多く使用されています。
国の登録有形文化財に指定されており、通常は一般公開されていません。
大黒堂です。
伝教大師最澄が比叡山へ登ったときに大黒天を見た場所のようです。
本尊は最澄が彫ったという三面出世大黒天。
正しい呼び方は三面六臂大黒天。
三面の中央は、米俵の上に立ち食生活を守る大黒天、右は勇気と力を与える毘沙門天、左は美と才能を与える弁財天です。
こちらの階段を上がると戒壇院です。
戒壇院は、天台宗で「正式な僧侶」となるための「受戒」の儀式をするお堂。
儀式は年に一度だけで、僧侶にとっても中に入れるのは生涯に一度だけとされる特別な場のようです。
最澄は晩年、自身の唱える「一隅(いちぐう)を照らす」人材を育てるため、比叡山に戒壇院の設立を目指し、亡くなる前日に朝廷から勅許が下り、死後に建立されたとあります。
後に各宗派の開祖となる法然や親鸞らも、この場で誓いを立てたといわれています。
織田信長による比叡山焼き打ち(1571年)で、こちらは焼失したため、現在のお堂は、江戸時代(1678年)に再建されたようです。
こちらが阿弥陀堂です。
阿弥陀堂は、1937年(昭和12年)、比叡山開創1150年大法要を記念して建立された檀信徒の先祖回向の道場。
本尊は阿弥陀如来です。
スタンプラリーで一つ目小僧の話が紹介されていました。スタンプは集めなかったのですが、復習すると面白いですね。
西塔に続きます。