西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡58 宮崎県えびの市

2024-06-02 05:59:00 | 宮崎県西南戦争史跡
えびの市飯野における西南戦争

官軍・別働第二旅団の進撃により人吉を失った薩軍は加久藤峠を越え現在の宮崎県えびの市に退きました。

村田新ハは加久藤に本営を置き、河野主一郎は小林に本営を置きます。

別働第二旅団は人吉からえびの市の飯野に進軍してきました。

明治10年6月21日

河野主一郎は兵100余名を率いて小林を発し飯野に向かいます。

薩南血涙史では河野主一郎の兵が100余名と少ない事について書かれていました。

【河野所部の兵屋敷野越に於て破竹四番中隊半隊長吉留盛美以下官軍に降り、箙瀬に於て破竹二番中隊長赤塚源太郎一中隊を率ゐて亦官軍に降り、大畑の敗飯野越の敗に至りて離散するもの多く其部下此に至て百餘名となれり、此時に當り各方面の薩軍にして未だ斯くの如き人心の背反するものを見ざるに特河野の軍に至り此事あるは實に怪しむべきなり】

河野主一郎は兵が少ないので藤井鐵之助に兵士を託し単身加久藤本営に向かい援軍を村田新ハに頼みます。

村田新ハは三小隊を援軍に出しました。

河野主一郎は直ちに小林へ帰ったのですが飯野の兵も戦わずして小林に戻ります。

この時なぜ河野と兵士が小林に戻ったのかはわかりません。

翌早朝、加久藤本営は吉田より雷撃二番中隊(隊長・町田萬)・鵬翼一番中隊(隊長・美代直左衛門)、馬関田より破竹一番中隊(隊長・池田吉之助)を援軍として飯野に向かわせました。


6月23日

別働第二旅団の兵は飯野の八幡山に陣を敷きます。

薩軍は雷撃二番中隊・鵬翼一番中隊・破竹一番中隊に加え常山一番中隊(隊長・原田種秋)・常山七番中隊(隊長未詳)・雷撃五番中隊(隊長・池田彦四郎)・振武十一番中隊左小隊(隊長・柚木正次郎)の7隊400余名を2手に分けて本道と霧島連山裾野から進軍しました。

本道方面
雷撃二番中隊
鵬翼一番中隊
破竹一番中隊
常山一番中隊

霧島連山裾野方面
常山七番中隊
雷撃五番中隊
振武十一中隊左小隊

この時、鹿児島より来ていた行進十二番中隊(隊長・鵜木五左衛門)が正面の先鋒に加わっています。

戦いの火蓋を切ったのは霧島連山裾野方面からの兵で八幡山の官軍を退けます。

逃げた官軍の先には本道方面からの薩軍がおり、本道方面の薩軍は突進して官軍の前軍を撃破して中堅に迫ろうとしました。

官軍は潰走して城山まで退きますが薩軍は追撃して数時間激戦を繰り広げますが、日が暮れて弾薬も尽きたので薩軍は引き上げていきました。

雷撃二番中隊は吉田に破竹一番中隊は馬関田に戻り、振武十一番中隊は原田村に引き上げています。

河野主一郎と意見の衝突により鵬翼一番中隊は吉田へ帰り、行進十二番中隊は鹿児島の栗野に引き上げてしまいました。

河野主一郎はこの時期何かを抱えていたのでしょうか?

兵士の離散や衝突など多いのは将としての問題がありますね。



6月24日

この日薩軍は前日の雌雄を決するため兵を分けて飯野に進軍します。

薩軍は官軍の塁を抜いていきますが、官軍は密かに潜行して背面に回り激しく射撃をし、城山からは砲撃をして薩軍の進軍を防ぎました。

薩軍は官軍を抜くのは難しいとして小林に兵を帰し川を挟んで塁を築き、官軍と相対して10日余り連戦します。

原田村の振武十一番中隊左小隊は村田新ハの命により加治木に帰りました。



【西南戦争史跡

坂元官軍墓地(墓石群)

坂元には野戦病院が設けられており負傷者が送り込まれていました。

そのため坂元に官軍墓地が建てられています。



案内板には宮崎県からの党薩諸隊が約20,000人と書かれていますが間違いでしょう。

宮崎県からの党薩諸隊は約8,820人です。









官軍慰霊塔

官軍墓地(墓石群)が移る前の旧墓地です。

墓石群の案内板には【諸々の事情】とありましたが、この地は旧島津領で地元住民も当時薩軍びいきだったようです。

憎き官軍の墓と自分達の墓が同じ場所にあるのを嫌がったという事が移転の理由だったのでしょうね。







薩軍弾薬製造所跡

えびの市飯野出張所は薩軍弾薬製造所でした。



飯野出張所横の道は薩軍と官軍が通った道という事です。












昌妙寺

明治10年2月17日西郷隆盛、桐野利秋、村田新ハ、淵辺高照は薩軍砲隊を率いて鹿児島を出発します。

2月19日吉田温泉昌妙寺に宿泊しました。























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡57 球磨郡山江村照岳

2024-05-26 02:03:00 | 熊本県西南戦争史跡
る人吉市の北側にある球磨郡山江村・照岳に西南戦争の塹壕があるので探索してきました。



照岳における西南戦争

明治10年5月26日

別働第二旅団司令・山田顕義少将は人吉攻撃の義を決し、歩兵三十二個中隊・屯田兵二中隊・砲兵五小隊・工兵四小隊を以て五家、五木、種山、萬江(万江)、照嶽(照岳)、球磨川、佐敷の七道より漸次進軍するの部署を定め30日拂暁(夜の明けがた)より行進を開始せり。
【薩南血涙史より】

照岳道・照岳古道(殿さん道)

相良12代当主・相良為続が文明16年(1484年)八代地方に勢力を伸ばすため開拓した軍事用の古道。

人吉市上原田町から球磨郡山江村の照岳を越え、球磨村両村境の白岩山など尾根沿いから八代市坂本町に抜ける。



照岳を進軍した官軍は山地中佐が率いる五個中隊と選抜兵でした。

5月30日官軍は行進ラッパを吹奏して進軍。

照岳丘上において薩軍(隊号未詳)と激戦を繰り広げます。



薩軍は劣勢で人吉に援軍を要請しました。

援軍として発したのは雷撃二番中隊。

照岳に駆けつけた雷撃二番中隊の隊長・町田萬は自ら先鋒となり、官軍に斬り込みました。

官軍兵は驚き退却ラッパを吹奏して照岳に逃れます。

薩軍は尾激して官軍の銃器、弾薬を獲ることができました。

雷撃二番中隊は翌日に人吉南側の大畑に退きます。


照岳登り口



しばらくは林道が続きます。



分岐点が現れるました。



分岐点を左へと進みます。



その先は行き止まり…



周辺を探索すると下に行ける場所を見つけました♪



今度は急斜面…ロープを掴んで登ります。



長い年月で古道も崩壊したのでしょうか。

更に登って行きます。



歩きやすい道ですね。



古道の姿が実感できます。




分岐点に出ました。

矢印の方が照岳です。



しばらく登ると【山越えの神】馬頭観音の石像がありました。



この石像周辺に薩軍塹壕が残っています。

ここで官軍の人吉進軍を防ごうとしたのですね。









もう少し北に進むと今度は2段重ねの塹壕がありました。

地形は南に下がっており、構築したとすれば官軍側だと思われます。







この塹壕の北側斜面を登ると平坦な場所がありました。

別働第二旅団司令・山田顕義も照岳にいましたのでここが牙営地だった可能性があります。



塹壕分布図



照岳山頂





これにて照岳の探索は終了です。

西南戦争の激戦地としての名残りがある素晴らしい場所でした。

探索時間4時間

探索距離8.5km
























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡56 薩軍可愛岳突囲戦 前軍経路探索③

2024-05-19 14:56:00 | 宮崎県西南戦争史跡
2024年5月3日

2回目の薩軍可愛岳突囲における前軍経路の探索をしました。

今回のメンバーは牧野会長・南さんの3人です。

牧野会長と南さんは3月31日にも探索しているので3回目となります。(自分は都合が合わず不参加)

3月31日の探索では途中で滝に阻まれ中断したとのことで2月11日の探索ルートと結合できなかったようです。

そのため今回の目標はルートの結合で経路探索達成することでした。

午前7:00俵野の西郷隆盛宿陣跡に集合。

会長の車で三足の林道に入りスタート地点に向います。



7:17 準備も完了してスタートします。





今回の探索全貌地図



スタート地点から林道を100mほど下った場所から山に入ります。

いつもながら入口からして普通の登山とは違う雰囲気がしてきました。





沢沿いを登って行きます。



3月31日の探索に参加していないので探索状況を把握できていないのが現状でした。

とりあえずメンバーに付いて行き、自分の軌跡を繋げることが大事だと思いながら歩きます。

7:32 標高293m 炭窯跡①を発見。



木馬路をそのまま進むと林道に出ました。



その先で林道が分岐したので左側に進んでみます。





すると左側の上に林道が出てきました。

先ほど分岐した右側の道が迂回した形で現れたようです。

上に行くため左上の林道に移ります。(林道のショートカット!)




林道が終わり路を探し出して進むと高畑山・小橋山からの尾根に出ました。



7:53 標高354m 尾根に到着。



尾根の両サイド(かなりの急斜面です)





この辺りには明治10年8月18日官軍第二旅団の半数が居ただろうと牧野会長は話していました。

第二旅団本隊は18日午前2時可愛岳北側の牙営を出発、六首山南から俵野の薩軍殲滅に進軍しています。

しかし、森木ノ坂を下りた所で六首山にて可愛岳突囲戦が始まり半分が六首山方面に向い、半分は俵野へ向かっています。

こんな山の中でも西南戦争の痕跡があると思えば感慨深いものがあります。

第二旅団薩軍本営殲滅進撃路予想図
(円の場所がこの尾根)



尾根から路を探し更に東へ進みます。



しばらく進むと別の尾根に出ました。





ここでも路を探しながら進んで行きます。







結構険しい路です…





そして恐れていた事が…

路がシダに覆われてしまいます。

牧野会長は迂回路を探しに崖をよじ登り、自分はナタでシダを払い通れないか模索していました。



シダは一層深くなり断念…



牧野会長から迂回できるとのことでしたので崖をよじ登り上に行きます。



上には路があり、先ほどのシダで覆われていた路と繋がっているようです。



人が使わないと自然に還る。

自然の力とは凄いものですね…

9:19 標高359m 炭窯跡②を発見。





ここの炭窯は完全体で残っており感動しましたが、牧野会長からこの炭窯は北川町が延岡市に編入する記念に復元したものと教えてくれました。

復元とはいえ、元々炭窯があった場所に作られたとのことです。



炭窯から東へ木馬路を進みます。



木馬路も崩壊していて険しいです。





路が崩落している場所もありました。

少し迂回して牧野会長が記念撮影!



南さんも同じく!



路の斜面には人工的に掘られた跡があります。



炭窯を作る際に粘土を採取するため掘ったと牧野会長が教えてくれました。

粘土を採取したという事は近くに炭窯があったと考えられます。





ここにも粘土を採取した痕跡が!



右下に林道が見えてきて、林道に下りると開けた場所に出ました。



ここは可愛岳南登山道の『ザレの頭』で、俵野・薩軍本営からの経路と繋がりました。

9:38 標高340m ザレの頭



スタート地点からザレの頭までのルート



これからは標高を少し上げて西へ進み、2月11日に探索した経路と繋がる路を探していきます。

『ザレの頭』表示板左下の斜めに上がっている路が可愛岳南登山道です。



しばらくは南登山道を進みます。



小橋山(右手前)、高畑山(中央左寄り)



10:08 標高433m 水のみ場



ここからは岩場を登って行きます。



可愛岳はこの様な岩場が多く、百間ダキの絶壁もある岩だらけの山です。

それは環状岩脈(リングダイク)という特殊な地形からなるものでマグマの貫入で形成された花崗岩や花崗斑岩から成り立っています。

オレンジが環状岩脈(リングダイク)




10:18 標高471m 炭窯跡③に到着。

ここは登山道沿いに復元された炭窯跡ですが屋根部分は崩壊しています。





登山道を歩くのはここまで。

これからまた木馬路・樵路を探して進みます。

11:11 標高479m 尾根に出ました。



この尾根は8:20に歩いた尾根の北になります。

ここで全員位置確認!



木馬路を進みます。



どんどん斜面が急になっていきます。













大きな岩が目立ってきました。





11:35 標高439m 炭窯跡④を発見。





木馬路も残っているので更に進みます。



11:41 標高422m 炭窯跡⑤を発見。



この炭窯跡を分岐点として前軍は西(中ノ越)へ、中軍は北(可愛岳山頂)へ向かったようです。



自分達は前軍経路を進んで行きます。





ここは足場も脆く歩き難い場所でした。



12:14 標高366m スタート地点から4.9kmの場所で昼食休憩。

何気に背にしている岩も凄いです。



昼食休憩地点の景色





昼食休憩地点までの経路



20分の休憩を終え出発。



木馬路から…





再び足場の脆い樵路へ。



全員足元を滑らせながら歩きます。



ようやく2月11日に探索した経路と結合できました。





これでザレの頭から中ノ越まで前軍経路を繋ぐことができました。

俵野の薩軍本営からザレの頭までの薩軍経路は可愛岳南登山道なので次回歩きたいと思います。

次の課題は中ノ越から浜砂までです。

2月11日に探索した中ノ越から浜砂までは官軍第二旅団の経路(浜砂からの経路)なので薩軍前軍が実際に向かった六首谷方面(高橋信武氏ブログ・延岡郷土史 二六会 可愛岳激戦記参照)を探索したいと考えています。

※第二旅団の経路は浜砂からと桑平からの2通りあります。





3Dて見る探索済と未探索経路






前軍経路の探索も終え、時間があるので牧野会長から森木ノ坂に行かないかと提案があり、森木ノ坂へ向かいました。

森木ノ坂へは林道で行くことができます。



森木ノ坂は官軍第二旅団本隊が俵野の薩軍本営を殲滅すべく進軍したと思われる経路です。



第二旅団が森木ノ坂を下ったところで六首山付近で戦闘が始まります。

戦闘を知った第二旅団は兵を2分して1隊は俵野へ向かい、1隊は六首山へ向かいますが森木ノ坂は急斜面で容易に登ることができません。

それに薩軍前軍は戦闘が始まると森木ノ坂に橋頭堡を構築して第二旅団援隊の進撃を防いでいます。

13:53 森木ノ坂に到着。



ここは長尾山からの尾根になります。



写真中央を登って行くと六首山に行きます。



牧野会長の推測では第二旅団は窪地を作り、大砲を斜めにし、傾斜をつけて六首山へ砲撃したのではと語っていました。

森木ノ坂の窪地





塹壕のようなものもありました。



下に見えるのが林道、かなりの急斜面です。



森木ノ坂を後にして林道で長尾山からの尾根と並走しながら歩いて大峡町に向かいます。



右上の盛り上がりが長尾山からの尾根です。



林道から可愛岳を望みます。

中央の崖が百間ダキです。



15:33 林道が終わり大峡町に出てきました。

今回の探索はこれにて終了です。







【今後の探索】
黄色ラインが今後の探索経路

俵野~ザレの頭


薩軍前軍・辺見十郎太、河野主一郎経路(六首谷)
第二旅団経路の一部(浜砂~中ノ越)


薩軍前軍・相良長良経路



















































薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡55 宮崎県西米良村・旧東米良村

2024-04-15 15:15:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西米良村における西南戦争

西南戦争勃発の時に米良の領主だった菊池忠(すなお)は河野義俊と共に薩摩に向い村田新八率いる二番大隊九番小隊に加わります。

その後米良では明治10年4月27日に米良隊を編制して出兵しました。

米良隊
長友森衛・児玉元衛・甲斐瀬平・松浦市次・中武幾衛・中武貞衛・中武宗平・中武安平・中武八平・中武虎市・中武谷吉・中武岩吉を含む総勢32名

米良での戦闘は人吉陥落後の7月に入ってからで米良村史では別働第ニ旅団の中村重遠中佐率いる官軍620名が村所を攻撃、7月12日に村所を占領しています。

その後、小川に集結中の薩軍を攻略すべく天包山に10余りの塁を構築しました。

7月22日天包山に薩軍が攻撃をしたとあります。

薩南血涙史での米良における戦闘を記載します。

薩軍干城隊指揮長・阿多荘五郎が米良口を担当しています。

阿多荘五郎が率いる干城隊(大口方面の干城隊とは異なる米良口編制の干城隊)

干城隊一番中隊・米良重任
干城隊二番中隊・八木彦八
干城隊三番中隊・野間孫兵衛
干城隊四番中隊・石塚七十郎
干城隊五番中隊・河野通代

7月18日
干城隊は米良村の西八重、上米良、本城、横谷などの要所を守備します。

横谷方面の官軍(別働第ニ旅団)を襲撃すること3回に及ぶが官軍の要害により撃退できず両軍対峙している状況でした。

官軍は幽谷深林の間を潜行して来襲してきましたが薩軍各隊はこれを防ぎ撃って退けます。

7月21日
官軍は本城の干城四番・干城三番に攻め込んで戦闘をします。

薩軍は本城の防戦に利がないと判断し、小川に退きました。

横野を守備していた干城二番は官軍が小川に出ては横野の塁も保つことができないと応援に向い奮闘して官軍を退け、この地の守備をします。

7月23日
指揮長・阿多荘五郎は官軍が占拠している天包山に進撃することを決め、正面より干城一番・干城三番のニ隊を進軍させて、間道に干城四番・干城五番・佐土原二番・佐土原七番を向かわせ官軍の背後を衝きました。

正面の干城一番・二番隊は官軍との戦闘が始まりましたがお互い奮闘して勝敗が決まりません。

干城四番と佐土原二番は右翼間道より官軍の塁に迫り、干城五番・佐土原七番は林の中の樵路を進み左翼を衝きます。

官軍は第一塁を防ぐことができず後退、第ニ塁で応戦しますが正面からの薩軍と右翼からの薩軍に挟撃されて第ニ塁も捨て後退しました。

薩軍の攻撃は凄まじく官軍の要地をどんどん奪い官軍は第七塁まで退却してしまいます。

第七塁まで薩軍が攻撃してきましたが官軍もこれを死守します。

その時、官軍の付属第ニ中隊(降伏した人吉隊)が援隊として駆けつけ、さらに清水中尉が四斤山砲に榴散弾を装填して薩軍に砲撃しました。

薩軍はすでに弾薬が尽き、兵士も疲労していたため天包山から退却してしまいました。




天包山 西南戦争の碑





天包山 坊主岩の弾痕









駐車場から坊主岩に行くには下写真左側の階段を上って行きます。



少し上ると左に坊主岩があります。








米良は7月の戦闘以外でも薩軍と関わりがあります。

8月18日可愛岳突囲した薩軍が鹿児島に向かっている時に米良を通りました。








砂浜重言宅跡

8月25日西郷隆盛が旧東米良村銀鏡(しろみ)の砂浜重言宅に宿泊しています。



銀鏡集落



銀鏡川
薩軍退路の時は雨で増水していたようです。











児玉愛平宅跡

8月26日西米良村村所の児玉愛平宅に西郷隆盛が宿泊しています。

当主の児玉愛平は翌日薩軍の案内役をしました。











桐山宅跡

8月27日児玉愛平宅を出発した西郷隆盛は西米良村八重の桐山宅で休憩しています。

桐山宅は老朽化と2009年の土砂崩れで現在は建物は残っていません。

しかし、桐山宅の傍にあった柿の木が今も残っていました。

西郷隆盛もこの柿の木を見ていたと思います。









桐山宅跡へ行くには】

土砂崩れのため桐山宅跡に行く道は地図に載っていません。

車を置いて徒歩で行きます。

車の駐車場所


駐車場所から上り口を見る。


上り口


けっこうな勾配のある坂です。














坂を上ること約20分ようやく平坦な場所に出ます。

ここに柿の木が残っています。


西郷隆盛は桐山宅を出て山を越え球磨の槻木に入ります。

西南戦争史跡46に槻木の記事があります。












薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡54 宮崎県延岡市②

2024-04-06 18:36:00 | 宮崎県西南戦争史跡
延岡市で新たに巡った史跡を紹介します。


岡富官軍墓地

台雲寺に岡富官軍墓地があり、東京府士族・高橋種文の墓が一基あります。

墓石には9月22日に死亡とありました。

その日は鹿児島の城山で総攻撃が始まる2日前。

官軍のほとんどが鹿児島にいたはずなのに高橋種文がどこで死亡して、なぜ延岡に埋葬されたのかわかりません。

戦国時代末期から江戸前期にかけて延岡の領主だった高橋氏と何か関わりがあるのでしょうか?

名前に種が付く共通点もあります。

ご存じの方がおられましたらご教授お願いします。















今山招魂碑

延岡士族によって編成された延岡隊。

各地での激戦で多くの戦死者を出しています。

生存者有志にて大正5年に建立されました。

裏面には戦死者80名が刻名されており、慰霊祭も行われています。







西郷隆盛露営之地 地蔵谷

可愛岳突囲を果たした薩軍は8月18日夜にこの谷の上流(ここより約4km)に露営して一夜を明かしました。

いつか地蔵谷に行ってみたいですね。



この沢の奥に野営した場所があります。









牧野会長のブログで地蔵谷の詳しい説明がありますので読まれて下さい。





西郷隆盛宿陣跡 小野熊治宅

薩軍は地蔵谷から祝子川に出て、祝子川沿いに上流へ進みます。

途中で第一旅団川崎少佐が率いる部隊が向かっている情報を得たので待ち伏せして撃退。

そのまま上流に進み上祝子にある小野熊治宅で宿陣しました。











西南役烈士之墓

北川町川内名の天満神社内にあります。

天満神社の前にコミュニティバスの本深瀬バス停があるのでわかり易いです。

宮崎埋蔵文化センターの西南戦争遺構担当者に尋ねましたがこの墓の存在も知らないと言われました。

いろいろと調べましたがわかりません。

川内名では薩軍奇兵隊と熊本鎮台が戦闘していました。

官修墳墓ではないので薩軍兵士が埋葬されていると思われます。

ご存じの方がおられましたらご教授お願いします。



本殿右側の小さな祠横にあります。



祠の横にひっそりと建てられています。











山縣有朋中将陣頭指揮の地

明治10年8月15日和田越決戦において山縣有朋がここ樫山に官軍本営を置き、陣頭指揮をとりました。

西南戦争で西郷隆盛と山縣有朋は和田越決戦で初めて陣頭指揮をとって戦いましたが

樫山には塹壕も残っているようですが今回は行けませんでした。











くりごし峠

旧日豊街道です。

明治10年8月12日西郷隆盛はここを通り北川の吉祥寺に向いました。







薩軍奇兵隊本営跡

豊後方面に進軍した奇兵隊がここ熊田に本営を置いています。

現在は北川総合支所になっています。

和田越決戦時には官軍の熊本鎮台が熊田に牙営を置いています。









官軍・中西太平供養塔

北浦町の陣ヶ峰展望所には三川内で明治10年7月13日に戦死した官軍遊撃兵士・中西太平の供養塔が故郷石川県に向けて建立されています。

この供養塔は中西太平の一族が建立したものです。

中西太平の遺体は佐伯岡の谷招魂所に埋葬されています。

【三川内での戦い】

7月11日重岡にいた熊本鎮台・谷少将と第一旅団・野津大佐、児玉少佐は仁田原の薩軍は守備が堅固なので佐伯より後備第四大隊の二中隊と警視四番一小隊を黒沢から三川内に進軍を命令しました。

援隊として後備第四大隊の二中隊と警視六番一小隊も向かわせています。

7月12日後備第四大隊の二中隊は石神峠から三川内に向い、警視四番一小隊は石神峠を大きく迂回して三川内に突入しました。

三川内を守備していた薩軍は中津隊の増田隊一小隊・宮崎で募集した農兵の宮崎隊・その他絞兵(絞兵は一隊より十名或いは数名を抜いた兵)でした。

官軍の襲撃により三川内の薩軍は守備できず劣勢でしたが陸地(かちじ)より奇兵十六番・十九番・二十番と大原越から奇兵三番が援隊として駆けつけます。

それにより三川内では数日激戦が繰り広げられました。



この戦闘で中西太平も戦死したのでしょう。











児玉安治宅跡(西郷茶屋)

明治10年8月11日延岡市東本小路の原時行宅(現在延岡税務署)を出た西郷隆盛は北西に少し歩いた豊後口より川舟で五ヶ瀬川を下り東海に出て、北川を上りますが増水のため舟にて夜を明かします。

翌12日午前11時児玉安治宅で休憩・昼食をとり
、徒歩で北上して吉祥寺に向いました。











山田顕義少将宿営之地跡

官軍別働第二旅団司令の山田顕義が宿営した中條宅です。