岩間間道
この間道は岩村と平山を結ぶ道で岩村付近には政府軍本隊があり、平山では政府軍の平山部隊が陣地を構築していました。
明治10年3月3.4日には薩軍先鋒で川久保十次・村田三介が率いる薩軍2個小隊、中軍に伊東直二・園田武一が率いる薩軍2個小隊及び佐土原籐吾・川上彦一が率いる飫肥隊2個小隊、遊軍に別府九郎率いる薩軍1個小隊が岩間間道を巡り攻防戦を行ってます。
岩間間道の攻防戦は薩軍が優勢だったとのことです。
村田三介戦死の地
岩間間道の標識近くに村田三介戦死の地石碑があります。
村田三介は西南の役初戦の頃2月22日に政府が熊本城に籠城する鎮台兵を援護するため派遣された乃木希典が率いる第14連隊を植木の向坂にて迎え撃ち、隊の誇りである連隊旗を奪った人物でした。
山鹿を攻略すべく政府軍は三浦少将の第3旅団約4000人を向かわせます。
それに対し薩軍は村田隊(5番大隊2番中隊)・その他薩軍各中隊が10隊、飫肥隊1番から4番、熊本協同隊の合わせて約2500人で迎え撃つ事となります。
3月11日両軍激戦の中、政府軍は村田隊の背後を衝こうと川沿いを進んで行きます。
それを見つけた薩軍の神宮司隊は政府軍が接近するのを待ち一斉に射撃を行いました。
これにより敗走した政府軍を見て、村田三介はこの機を逃さず奮戦、指揮します。
しかしながらその時、村田三介は銃弾に当たり倒れる事となりました。
石碑には村田三介の戦死は3月12日とありますが実際は3月11日になります。