えびの市飯野における西南戦争
河野主一郎と意見の衝突により鵬翼一番中隊は吉田へ帰り、行進十二番中隊は鹿児島の栗野に引き上げてしまいました。
案内板には宮崎県からの党薩諸隊が約20,000人と書かれていますが間違いでしょう。
飯野出張所横の道は薩軍と官軍が通った道という事です。
官軍・別働第二旅団の進撃により人吉を失った薩軍は加久藤峠を越え現在の宮崎県えびの市に退きました。
村田新ハは加久藤に本営を置き、河野主一郎は小林に本営を置きます。
別働第二旅団は人吉からえびの市の飯野に進軍してきました。
明治10年6月21日
河野主一郎は兵100余名を率いて小林を発し飯野に向かいます。
薩南血涙史では河野主一郎の兵が100余名と少ない事について書かれていました。
【河野所部の兵屋敷野越に於て破竹四番中隊半隊長吉留盛美以下官軍に降り、箙瀬に於て破竹二番中隊長赤塚源太郎一中隊を率ゐて亦官軍に降り、大畑の敗飯野越の敗に至りて離散するもの多く其部下此に至て百餘名となれり、此時に當り各方面の薩軍にして未だ斯くの如き人心の背反するものを見ざるに特河野の軍に至り此事あるは實に怪しむべきなり】
河野主一郎は兵が少ないので藤井鐵之助に兵士を託し単身加久藤本営に向かい援軍を村田新ハに頼みます。
村田新ハは三小隊を援軍に出しました。
河野主一郎は直ちに小林へ帰ったのですが飯野の兵も戦わずして小林に戻ります。
この時なぜ河野と兵士が小林に戻ったのかはわかりません。
翌早朝、加久藤本営は吉田より雷撃二番中隊(隊長・町田萬)・鵬翼一番中隊(隊長・美代直左衛門)、馬関田より破竹一番中隊(隊長・池田吉之助)を援軍として飯野に向かわせました。
6月23日
別働第二旅団の兵は飯野の八幡山に陣を敷きます。
薩軍は雷撃二番中隊・鵬翼一番中隊・破竹一番中隊に加え常山一番中隊(隊長・原田種秋)・常山七番中隊(隊長未詳)・雷撃五番中隊(隊長・池田彦四郎)・振武十一番中隊左小隊(隊長・柚木正次郎)の7隊400余名を2手に分けて本道と霧島連山裾野から進軍しました。
本道方面
雷撃二番中隊
鵬翼一番中隊
破竹一番中隊
常山一番中隊
霧島連山裾野方面
常山七番中隊
雷撃五番中隊
振武十一中隊左小隊
この時、鹿児島より来ていた行進十二番中隊(隊長・鵜木五左衛門)が正面の先鋒に加わっています。
戦いの火蓋を切ったのは霧島連山裾野方面からの兵で八幡山の官軍を退けます。
逃げた官軍の先には本道方面からの薩軍がおり、本道方面の薩軍は突進して官軍の前軍を撃破して中堅に迫ろうとしました。
官軍は潰走して城山まで退きますが薩軍は追撃して数時間激戦を繰り広げますが、日が暮れて弾薬も尽きたので薩軍は引き上げていきました。
雷撃二番中隊は吉田に破竹一番中隊は馬関田に戻り、振武十一番中隊は原田村に引き上げています。
河野主一郎と意見の衝突により鵬翼一番中隊は吉田へ帰り、行進十二番中隊は鹿児島の栗野に引き上げてしまいました。
河野主一郎はこの時期何かを抱えていたのでしょうか?
兵士の離散や衝突など多いのは将としての問題がありますね。
6月24日
この日薩軍は前日の雌雄を決するため兵を分けて飯野に進軍します。
薩軍は官軍の塁を抜いていきますが、官軍は密かに潜行して背面に回り激しく射撃をし、城山からは砲撃をして薩軍の進軍を防ぎました。
薩軍は官軍を抜くのは難しいとして小林に兵を帰し川を挟んで塁を築き、官軍と相対して10日余り連戦します。
原田村の振武十一番中隊左小隊は村田新ハの命により加治木に帰りました。
【西南戦争史跡】
坂元官軍墓地(墓石群)
坂元には野戦病院が設けられており負傷者が送り込まれていました。
そのため坂元に官軍墓地が建てられています。
案内板には宮崎県からの党薩諸隊が約20,000人と書かれていますが間違いでしょう。
宮崎県からの党薩諸隊は約8,820人です。
官軍慰霊塔
官軍墓地(墓石群)が移る前の旧墓地です。
墓石群の案内板には【諸々の事情】とありましたが、この地は旧島津領で地元住民も当時薩軍びいきだったようです。
憎き官軍の墓と自分達の墓が同じ場所にあるのを嫌がったという事が移転の理由だったのでしょうね。
薩軍弾薬製造所跡
えびの市飯野出張所は薩軍弾薬製造所でした。
飯野出張所横の道は薩軍と官軍が通った道という事です。
昌妙寺
明治10年2月17日西郷隆盛、桐野利秋、村田新ハ、淵辺高照は薩軍砲隊を率いて鹿児島を出発します。
2月19日吉田温泉昌妙寺に宿泊しました。
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