西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉓ 熊本県御船町その2

2023-01-22 15:59:00 | 熊本県西南戦争史跡
御船での西南戦争の経緯②

御船町2回目の激戦は明治10年4月20日の城東会戦です。



薩軍・坂元仲平隊と熊本隊、協同隊、人吉隊が御船に配置され、官軍3旅団(別働第一、別働第ニ、別働第三)と戦闘しています。

熊本隊の奮戦は凄まじく戦死者60余名出しました。

若宮渕では川を渡る薩軍に対し官軍は激しい銃撃を行い、渕の水面は薩軍兵の鮮血で赤く染まったそうです。

御船の戦いで薩軍は多くの負傷者を出しています。

敗退した薩軍は負傷者を引き連れて山都町の矢部に向かいました。

官軍側(甲佐町津志田)より御船方面の古写真をカラー化
①盗人塚
②妙見坂
③駒返山


盗人塚と妙見坂は熊本隊一番小隊・二番小隊・十二番小隊・十三番小隊・十四番小隊と熊本協同隊が守備、駒返山は熊本隊九番小隊が守備していました。

飯田山には熊本隊参謀・山崎定平率いる熊本隊四番小隊・十五番小隊が守備しています。


【西南戦争史跡】

熊本諸隊奮戦之地の碑

妙見坂への入口にあります。







妙見坂

激戦地跡です。

熊本隊は妙見坂を見下ろせる盗人塚山と駒返山に布陣します。





妙見坂から眺めた御船町。







熊本隊士の墓

妙見坂の上にある御船で戦死した熊本隊士11名の合同墓です。

熊本士と刻まれています。





入口の案内板







法光寺の丁丑戦死之墓

墓標には戦死した熊本隊士の氏名が刻まれています。

法光寺は熊本隊の野戦病院があったと云われています。









東禅寺

ここには熊本隊士3名の墓があります。

正垣鍬五郎・熊本隊一番小隊隊士
磯野忠躬 ・熊本隊九番小隊隊士
下田文次郎・熊本隊十四番小隊隊士

3名共4月20日に御船川(若宮渕でしょうか?)で戦死しています。



















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉒ 熊本県御船町その1

2023-01-22 15:32:00 | 熊本県西南戦争史跡
御船での西南戦争の経緯①

御船町では大規模な戦闘は2回ありました。

1回目は松橋・宇土を占拠して北上してくる衝背軍別働第一・別働第ニ・別働第三・別働第四旅団と松橋・宇土から後退し緑川を守備線として迎え撃つ薩軍の激戦が行われたのが明治10年4月12日です。



この戦闘で熊本から御船に駆けつけた薩軍三番大隊長・永山弥一郎が戦死しました。




永山弥一郎は他の薩軍将校と違い明治6年の政変で鹿児島に下野していません。



その頃、永山は陸軍少佐を辞し開拓使として北海道に赴いていました。

永山は西郷隆盛と一緒に下野した近衛将校を軽挙と批判します。

明治8年に軍に復帰し屯田兵を率いていましたが樺太・千島交換条約を政府が締結した事に憤慨して鹿児島に下野しました。

西南戦争前には大軍を率いて上京する事に反対していましたが仲が良かった桐野利秋の説得に折れ薩軍三番大隊長になります。

永山弥一郎が戦死した翌日、官軍の増援で屯田兵を率いた永山武四郎(血縁関係はない)が熊本に上陸。

もし、明治8年に下野していなければ永山弥一郎が屯田兵を率いていたかもしれませんね。



【西南戦争史跡】

永山盛弘(弥一郎)戦没の地

永山弥一郎は自軍の敗戦と負傷により自決を覚悟します。

この地にあった民家を買い取り家に火を放ち自決しました。(映画・半次郎では弥一郎が老婆に家を売ってくれとお金を渡したら老婆は鹿児島弁で話していました。ここは熊本なのにと違和感が残った事を思い出します。)









薩軍本営跡

西南戦争時ここには酒蔵があり、薩軍本営が置かれていました。

負傷した身体で駆けつけた永山弥一郎は酒樽をひっくり返し、その上に腰掛け薩軍兵士に叱咤激励を飛ばします。

しかし、戦線は崩壊し四面皆敵になり永山弥一郎は御船川の対岸にあった民家を買い取り、火を放ち自刃しました。

現在本営跡には何もありません。



昭和の頃の本営跡

案内板みたいな物が写っています。