段山の戦い
熊本城西側に段山という場所があります。
(下の地図赤丸部分)
現在は平地ですが西南戦争当時は熊本城三の丸にあった藤崎台と10m程の空堀を隔てた独立丘陵でした。(昭和に削られた段山丘陵の土は古城の水堀を埋めるのに使われました)
熊本籠城軍は兵士不足のため藤崎台方面の守備は薄かったようです。
薩軍はこちらを篠原国幹の一番大隊、村田新八のニ番大隊、別府晋介の六番七番連合大隊の一部が背面軍として包囲します。
明治10年2月22日
7:00頃薩軍は砲隊の到着を待たず段山を攻撃します。
10:00頃古城方面から別府隊の一部が段山を占拠して藤崎台へ銃撃を開始しました。
籠城軍は藤崎台の片山邸へ兵士を送り込み大砲を設置して応戦します。
現在の熊本市西区高橋町で海側の防衛をしていた別府晋介の六番七番連合大隊本隊が銃撃、砲撃の音を聞き段山へ駆けつけます。
11:00頃薩軍一番砲隊が段山の西にある島崎へ到着しました。
一番砲隊は島崎高台から段山方面へ砲撃します。
ニ番砲隊は夜半に到着。
ニ番砲隊は祇園山(のちの花岡山)、四方池(よもち)へ進出して熊本城へ砲撃を開始します。
花岡山薩軍砲座跡
四斤山砲が最大運用時12門設置されていました。
薩軍の砲弾は熊本城本丸や飯田丸に着弾しています。
熊本城より高い花岡山砲台からの砲撃は目視照準(射角の調整)が合わせ易かったようですね。
【四斤山砲は緩い放射線弾道で射的物を狙うのに適しています。臼砲は急激な放物線弾道で櫓や塀の上を越えて着弾します。そのため臼砲は薩軍の正面軍が使用しました。】
花岡山より熊本城を望む
写真では天守が標的になりますが西南戦争当時は天守が焼失しています。
この事を考えると天守焼失は籠城軍側の策だったのかも…
22日夕刻、到着が遅れていた三番大隊の一部が祇園山に到着します。
辺見十郎太以下3個小隊が段山へ向います。
この日の激戦で藤崎台の藤崎八幡において籠城軍の樺山資紀参謀長(薩摩出身)が被弾して重傷を負います。
また、片山邸(薬師坂)にて籠城軍の与倉知実連隊長が腹部に銃弾貫通の重傷を負い、翌日死亡しました。
3月12日
籠城軍警視隊の片山邸守備隊が薩軍の占拠する段山へ進出します。
激戦を繰り広げる両軍ですが13日15:00頃籠城軍は段山を奪回しました。
その後、籠城軍は段山に陣地を構築し、砲2門を据えました。
堅固な熊本城の弱点であった藤崎台を落すことができなかった薩軍は攻城を諦めて長囲戦になってしまいます。
西南の役激戦地跡
記念碑があります。
段山の戦い薩軍戦死者慰霊碑
段山跡の西端井芹川沿いに建てられています。
慰霊碑の隣りにある墓碑は鹿児島県士族・岩重隆五郎の墓碑です。
碑文には3月13日八幡山にて戦死。17歳。とあります。
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