官軍砲兵陣地跡(北区龍田)
武蔵塚内の案内板
下の写真にある木戸を出て道路を渡った所にあります。
龍田御野立所公園内に砲兵陣地跡の碑があります。
城東会戦の時にこの辺りは大山巌(西郷隆盛の従兄弟)が率いる別働第5旅団(新設)が進出しています。
その時に設置されたのでしょうか。
砲台跡から薩軍陣営側への眺め
佐々友房の墓(中央区黒髪町小峯墓地)
佐々友房は熊本隊1番小隊長(のちに参謀)として西南戦争に参加します。
吉次峠、田原坂、御船、大口等の激戦を行い、薩軍と行動を共にしますが負傷のため延岡の長井村にて官軍に投降しました。
戦後裁判で懲役10年となりましたが明治12年1月に放免により出獄しています。
熊本県立済々黌高等学校の創設者でもあります。
丁丑感舊之碑 丁丑殉難之碑(中央区黒髪町小峯墓地)
丁丑感舊之碑は佐々友房等熊本隊の生存者達が戦死した熊本隊士の鎮魂のため建立しました。
当初は手取本町に建てられましたが道路拡張で小峯墓地に移設されました。
移設の時、同志の趣旨と行動を記した自警書と挙兵始末の2碑が左右に加えられています。
丁丑殉難之碑は熊本隊士の名前が彫られています。
拝聖院(北区室園町)
鳩野崇巴は明治10年2月23日熊本隊隊長池辺吉十郎に薩軍の治療を依頼されましたが、敵味方区別無く
治療をすることを条件に引き受けました。
鳩野崇巴、藩医の河喜多宗磧、黄玄風、原田早春、村上又五郎、松岡独醒庵、狩野庄馬、村井同吉の8名で早速治療を開始しました。
これにより日本の赤十字活動発祥の地と言われています。
中津大四郎の碑(中央区薬園町)
中津大四郎率いる龍口隊は子飼の久本寺を屯所として薩軍に対して食糧の補給をつとめました。
屯所となった久本寺にこの碑があります。
その後、龍口隊は戦闘にも加わり延岡長井村にて官軍に投降、中津大四郎は長井村俵野で自刃しています。
松浦新吉郎の墓(北区龍田弓削)
熊本隊副隊長だった松浦新吉郎は佐々友房と同じく薩軍と共に激戦を行い延岡長井村にて官軍に投降します。
副隊長だったため裁判の判決は処刑でした。
10月31日に刑が執行され遺体は遺言にて宮本武蔵の墓(武蔵塚)の隣りに埋葬されました。
武蔵塚内の案内板
下の写真にある木戸を出て道路を渡った所にあります。