西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉜ 熊本市②

2023-03-22 17:46:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍砲兵陣地跡(北区龍田)

龍田御野立所公園内に砲兵陣地跡の碑があります。

城東会戦の時にこの辺りは大山巌(西郷隆盛の従兄弟)が率いる別働第5旅団(新設)が進出しています。

その時に設置されたのでしょうか。



砲台跡から薩軍陣営側への眺め









佐々友房の墓(中央区黒髪町小峯墓地)

佐々友房は熊本隊1番小隊長(のちに参謀)として西南戦争に参加します。



吉次峠、田原坂、御船、大口等の激戦を行い、薩軍と行動を共にしますが負傷のため延岡の長井村にて官軍に投降しました。

戦後裁判で懲役10年となりましたが明治12年1月に放免により出獄しています。

熊本県立済々黌高等学校の創設者でもあります。







丁丑感舊之碑 丁丑殉難之碑(中央区黒髪町小峯墓地)

丁丑感舊之碑は佐々友房等熊本隊の生存者達が戦死した熊本隊士の鎮魂のため建立しました。

当初は手取本町に建てられましたが道路拡張で小峯墓地に移設されました。

移設の時、同志の趣旨と行動を記した自警書と挙兵始末の2碑が左右に加えられています。

丁丑殉難之碑は熊本隊士の名前が彫られています。













拝聖院(北区室園町)

鳩野崇巴は明治10年2月23日熊本隊隊長池辺吉十郎に薩軍の治療を依頼されましたが、敵味方区別無く
治療をすることを条件に引き受けました。

鳩野崇巴、藩医の河喜多宗磧、黄玄風、原田早春、村上又五郎、松岡独醒庵、狩野庄馬、村井同吉の8名で早速治療を開始しました。

これにより日本の赤十字活動発祥の地と言われています。













中津大四郎の碑(中央区薬園町)

中津大四郎率いる龍口隊は子飼の久本寺を屯所として薩軍に対して食糧の補給をつとめました。

屯所となった久本寺にこの碑があります。

その後、龍口隊は戦闘にも加わり延岡長井村にて官軍に投降、中津大四郎は長井村俵野で自刃しています。







松浦新吉郎の墓(北区龍田弓削)

熊本隊副隊長だった松浦新吉郎は佐々友房と同じく薩軍と共に激戦を行い延岡長井村にて官軍に投降します。

副隊長だったため裁判の判決は処刑でした。

10月31日に刑が執行され遺体は遺言にて宮本武蔵の墓(武蔵塚)の隣りに埋葬されました。







武蔵塚内の案内板



下の写真にある木戸を出て道路を渡った所にあります。
















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉛ 熊本市①

2023-03-21 18:35:00 | 熊本県西南戦争史跡
光永寺 (西区池田)

熊本城を囲む薩軍の営所でした。

熊本鎮台兵、警視隊と薩軍、熊本隊が戦った京町口の出撃戦での弾痕が残っています。















往生院(西区池田)

光永寺の隣りにあるこの寺は熊本隊の本営跡です。









阿弥陀寺(中央区細工町)

この寺は熊本城開城後に官軍の包帯所があった場所です。









宗禅寺(中央区細工町)

阿弥陀寺の近くにある寺です。

この寺には西南戦争で戦死した肥後人を弔う墓碑があります。









香福寺

高瀬大戦で重傷を負った西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛が死亡後に仮埋葬された場所です。

熊本に着いた延岡隊の屯所にも使われたようです。









熊本城突囲隊出撃の所







正福寺(西区高橋町)

こちらには熊本隊の弾薬製造所がありました。

弾薬製造所になった時期は熊本隊が吉次峠で戦闘をしている時のようです。(佐々友房の戦袍日記より)




上記全ての寺には残念ながら案内板等はありませんでした。



海軍戦死者墓(西区上代)

正福寺近くの墓地に官軍兵士7人の墓があります。























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉚ 熊本城段山の戦い

2023-03-19 16:50:00 | 熊本県西南戦争史跡
段山の戦い

熊本城西側に段山という場所があります。
(下の地図赤丸部分)



現在は平地ですが西南戦争当時は熊本城三の丸にあった藤崎台と10m程の空堀を隔てた独立丘陵でした。(昭和に削られた段山丘陵の土は古城の水堀を埋めるのに使われました)





熊本籠城軍は兵士不足のため藤崎台方面の守備は薄かったようです。

薩軍はこちらを篠原国幹の一番大隊、村田新八のニ番大隊、別府晋介の六番七番連合大隊の一部が背面軍として包囲します。



明治10年2月22日
7:00頃薩軍は砲隊の到着を待たず段山を攻撃します。

10:00頃古城方面から別府隊の一部が段山を占拠して藤崎台へ銃撃を開始しました。

籠城軍は藤崎台の片山邸へ兵士を送り込み大砲を設置して応戦します。

現在の熊本市西区高橋町で海側の防衛をしていた別府晋介の六番七番連合大隊本隊が銃撃、砲撃の音を聞き段山へ駆けつけます。

11:00頃薩軍一番砲隊が段山の西にある島崎へ到着しました。

一番砲隊は島崎高台から段山方面へ砲撃します。

ニ番砲隊は夜半に到着。

ニ番砲隊は祇園山(のちの花岡山)、四方池(よもち)へ進出して熊本城へ砲撃を開始します。



花岡山薩軍砲座跡

四斤山砲が最大運用時12門設置されていました。

薩軍の砲弾は熊本城本丸や飯田丸に着弾しています。



熊本城より高い花岡山砲台からの砲撃は目視照準(射角の調整)が合わせ易かったようですね。

【四斤山砲は緩い放射線弾道で射的物を狙うのに適しています。臼砲は急激な放物線弾道で櫓や塀の上を越えて着弾します。そのため臼砲は薩軍の正面軍が使用しました。】












花岡山より熊本城を望む

写真では天守が標的になりますが西南戦争当時は天守が焼失しています。

この事を考えると天守焼失は籠城軍側の策だったのかも…



22日夕刻、到着が遅れていた三番大隊の一部が祇園山に到着します。

辺見十郎太以下3個小隊が段山へ向います。

この日の激戦で藤崎台の藤崎八幡において籠城軍の樺山資紀参謀長(薩摩出身)が被弾して重傷を負います。



また、片山邸(薬師坂)にて籠城軍の与倉知実連隊長が腹部に銃弾貫通の重傷を負い、翌日死亡しました。












3月12日
籠城軍警視隊の片山邸守備隊が薩軍の占拠する段山へ進出します。

激戦を繰り広げる両軍ですが13日15:00頃籠城軍は段山を奪回しました。

その後、籠城軍は段山に陣地を構築し、砲2門を据えました。

堅固な熊本城の弱点であった藤崎台を落すことができなかった薩軍は攻城を諦めて長囲戦になってしまいます。



西南の役激戦地跡

記念碑があります。









段山の戦い薩軍戦死者慰霊碑

段山跡の西端井芹川沿いに建てられています。






慰霊碑の隣りにある墓碑は鹿児島県士族・岩重隆五郎の墓碑です。

碑文には3月13日八幡山にて戦死。17歳。とあります。







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