ここに注目! 「"卑弥呼の墓"? 研究者が初の立ち入り調査」
NHK2013年02月20日 (水)柳沢 伊佐男 解説委員
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県の箸墓古墳で、きょう(2月20日)、研究者が立ち入る初めての調査が行われます。柳沢伊佐男解説委員に聞きます。
Q1:箸墓古墳とは、どのような古墳なのですか?
A1:奈良県の中部、桜井市にある全長およそ280メートルの巨大な前方後円墳で、皇室に関係があるとして陵墓に指定されています。
宮内庁では、この古墳を第7代の孝霊天皇の娘の墓と定めて管理しています。
Q2:皇族の墓が、なぜ、卑弥呼の墓ともいわれるのですか。
A2:その説を唱えているのは、邪馬台国が近畿地方にあったと考える研究者たちです。
古墳がつくられたのが、3世紀半ばか、後半という研究成果があり、卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一致することが、最も大きな理由です。
また、当時、近畿地方にあった古墳の中で、規模が最も大きく、強大な力を誇った卑弥呼にふさわしいという考えもあります。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とすれば、邪馬台国が近畿地方にあったとする有力な根拠にもなるのです。
Q3:研究者が古墳に立ち入るのは、今回が初めてになるのですね。
A3:箸墓古墳もほかの陵墓と同じく、皇室の祭祀、祭りをする場所として、一般の人の立ち入りが厳しく制限されています。
このため研究者たちは、陵墓には、古代国家の成立を考える上で欠かせない文化財としての価値があると訴え、公開を求めて宮内庁と交渉を重ねてきました。
最近になって、研究のための立ち入りが一部で認められるようになり、大きな目標としていた箸墓古墳の調査が実現することになったのです。
Q4:きょう(2月20日)の調査はどのように行われるのですか?
A4:研究者の団体から代表の16人が参加し、古墳のすその部分をぐるりと歩いて、盛り土の形や特徴を観察することになっています。
途中で発掘をしたり、土器を採取したりすることは、認められていませんが、古墳を間近に見ることで、図面ではわからない盛り土の特徴などが確認できるかもしれないということです。
纒向遺跡の布製品は国産の絹か
NHKニュース2013年5月30日 18時58分
邪馬台国の候補地の1つとされる奈良県桜井市の「纒向遺跡」で見つかった3世紀の布製品が、国産の絹で作られていた可能性が高いことが成分分析の結果、明らかになりました。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、邪馬台国が国産の絹製品を贈ったという記述があり、関連が注目されます。
この布製品は、大型建物の跡などが見つかり邪馬台国の有力な候補地の1つとされている桜井市の纒向遺跡で20年余り前に出土しました。
邪馬台国の時期と重なる3世紀に作られたとみられ、高さと幅が3センチほどの巾着の形をしています。
この布製品について、奈良女子大学の中澤隆教授などの研究グループが繊維に含まれるたんぱく質の成分を詳しく分析したところ、中国やインドの蚕が作る繭とは成分が異なった一方で、日本に古来から生息する蚕とは特徴が一致したということです。
このため研究グループは、布製品は国産の絹で作られた可能性が高いとしています。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、邪馬台国が「奴隷などと共に国産の絹製品を献上した」という内容の記述があります。
これについて中澤教授は、「記述を裏付けるものかどうか議論を始める第一歩と言える。今後、九州でも確認されている古代の絹の分析を進め、当時の生産状況を明らかにしたい」と話しています。
また、長年、纒向遺跡の調査に携わってきた兵庫県立考古博物館の石野博信館長は、「魏志倭人伝の記述と関係する可能性がある。邪馬台国の近畿説と九州説を比べるための材料が増え、今後、検証が進むことが期待される」と話しています。
今回の調査を第一歩に研究の実績を積み重ね、将来的には、誰の墓かわかるような成果を期待したいと思います。
それが古代の謎の解明につながればと、研究者はもちろん、古代史ファンの関心も高まりを見せています。
「魏志倭人伝」の記述とは
「魏志倭人伝」は3世紀に作られた中国の歴史書、「三国志」の一部に収められています。
「邪馬台国」の規模や、女王・卑弥呼について書かれ、当時の日本列島の姿を知るうえで重要な資料です。
この中で、卑弥呼は中国の魏の皇帝に使者を送り、「親魏倭王」に任命されたと記されています。
また、西暦243年に倭の国の王が使者を遣わした際の献上品の中に「倭錦」ということばがあり、当時、国産の絹製品が重要な贈り物になっていたことがうかがえます。
Listening:奈良・纒向遺跡:出土の花粉はバジル 卑弥呼の時代か
毎日新聞2013年05月31日
大和王権発祥の地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、1991年に出土した花粉が3世紀中ごろのバジルだとする論文を、金原(かねはら)正明・奈良教育大教授(環境考古学)が30日発表した。熱帯アジア原産のバジルは、江戸時代に薬用として中国から持ち込まれたとされていた。国内最古例の発見で、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の時代の国際交流を物語る貴重な発見と言える。
桜井市纒向学研究センター研究紀要に掲載された。花粉は、同遺跡の中心部にある3世紀中ごろの溝(幅約1.5メートル、深さ約1メートル)の土壌から、ごく微量検出され、何の植物か分からないままだった。金原教授によると、顕微鏡で別の発掘調査で集めたシソ科メボウキ属のバジルの花粉と比較した結果、形態がほぼ同じだったという。更に細胞の傷み具合から、後世に混入したものではないことが分かった。
同じ溝からは、過去に中国から染織技術と共に持ち込まれたとされるベニバナの花粉が見つかったほか、寄生虫の卵も確認され、染織の廃液や汚水を流していたとみられる。バジルも上流から流れてきた可能性が高い。
バジルは寒さに弱いため日本での自生は難しく、国外から持ち込まれたらしい。葉は香りが強く、夏から秋にかけて白や紅色がかった花を咲かせる。種は水につけるとふくらみ、ゼリー状の物質が出る。3世紀中ごろの用途は不明だが、江戸時代には目に種を入れるとごみが取れるとして「目箒(めぼうき)」という和名が付いた。
3世紀の日本について記した「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、中国・魏と卑弥呼が都とした邪馬台国などとの交流が記されている。金原教授は「ベニバナと同様、魏を通じてバジルが持ち込まれた可能性がある。纒向遺跡が国際色豊かな特異な地だったことを示している」と話している。【矢追健介】
【ことば】纒向(まきむく)遺跡
奈良県桜井市の三輪山西部の裾野に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロで最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳などが点在する。各地から持ち込まれた土器が出土し、邪馬台国の最有力候補地とされる。
纒向遺跡内に所在する主な古墳
箸墓古墳(桜井市大字箸中)桜井市纒向学研究センター
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125m、前方部前面の幅は147mです。墳丘は葺石(ふきいし)を持ち、後円部が5段、 前方部前面が4段の段築(だんちく)
で構成されますが、前方部側面にも段築の存在が想定されています。この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定されており、一切の立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では1994年に前方部北裾の調査が行われ、墳丘の基壇(きだん)とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が面的に検出されています。さらに、 1998年の後円部東南裾部の調査では、葺石を施した渡り堤や周濠(しゅうごう)、外堤状の高まりが確認されています。
この古墳からの出土品には、直接古墳に伴うものではありませんが布留1式期と現存最古の木製輪鐙(もくせいわあぶみ)(4世紀初め)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、 墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された特殊器台(とくしゅきだい)や特殊器台形埴輪(とくしゅきだいがたはにわ)、 特殊壷(とくしゅつぼ)、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあります。古墳の築造時期は布留0式期の3世紀後半と考えられ、最古の定形型前方後円墳といえます。
バジル(神目箒か?)の花粉と見られる出土物については、古代の人と文化の移動のスケールの大きさに驚かされる。海洋や陸上移動の大変さを古代人がらくらくとクリアしている例は、貨幣として現在も大きな役割を果たしている貝の移動が揚げられる。沖縄宮古島のタカラガイが殷墟で出土していることや中国甘粛省の石器時代の遺跡からの出土などのように内陸部への移動が挙げられる。
バジルの薬効を考えると早い時代に移入されていたと考えてもよい。紀元前二千三百年ころインダス川流域に発達したインダス文明に続き紀元前千五百年にインド・ヨーロッパ族のアーリア人が侵入したヴェーダ時代にヒンズー教の宗教詩歌集『』アユールヴェーダ』に医学や薬についての記載があり、現代に至るまでの伝統医学として伝えられているが、植物医薬の中にホーリーバジル(神目箒=トゥルシー(tulsi))の記述があり神聖な薬効の活用を様々な場面で運用している。
Shri Yash Raiによるものを大矢泰司が約した「ホリーバジルへの祈り」「ア–ユルベーダ叢書」より
吉祥女神の友にして、愛を体現したるもの
罪障から解きはなち、功徳を積ませるもの
その勲し、たえずナーダラ仙に謳われたる
ナーラヤナ(ヴィシュヌ神)の想いびと
おお、母なるトゥルシー、なんじに敬礼す
婆羅門、トゥルシー、菩提樹、牝牛、恒河
これらにもまして偉大なるもの、現世になく
つねに、かれらとの交わりを求めるがよい
牝牛とトゥルシーを持つ家に、病は訪れぬ
これぞ、息災のすべてのおきての精髄なり
玄関にトゥルシーをかまえる家は聖地なり
死神の使者はかような家に入ること叶わず
風はトゥルシーの香りを運びて、辺りを浄化す
沖縄の宮古島に約2000年前に入ってきたといわれており、神目箒の由来は目に入ったごみをとるためにトゥルシーを使ったところ、ゼリー状の物質でごみが取れたことによるという。
桜井市纒向学研究センターの記述によると
メクリ地区の木製仮面(桜井市大字太田)
纒向遺跡第149次調査において朱塗りの盾(たて)や鎌柄などの多数の遺物とともに庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.5cmを測ります。 アカガシ亜属製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用していますが、両目部分は新たに穿孔しており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現も施されています。 また、眉毛は線刻によって表現されています。木製の仮面としては国内最古のものです。
とされているが 最古の木製仮面出土 奈良・大福遺跡 産經新聞2013.5.30 19:22
奈良県桜井市の大福(だいふく)遺跡で、弥生時代末期-古墳時代初め(2世紀後半ごろ)とみられる木製仮面の一部が出土し、市教委が30日、発表した。市内の纒向(まきむく)遺跡では平成19年、3世紀前半の木製仮面がほぼ完全な形で出土しているが、これよりも今回の仮面は古く、国内最古の木製仮面という。
仮面はコウヤマキ製で、縦約23センチ、横約7センチ、厚さ約5ミリ。人の顔をかたどった仮面の右半分にあたり、目や口の部分をくりぬいて表現している。ひもを通す小さな穴も付いていた。
大福遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての大規模集落跡で、初期ヤマト政権の中心部ともされる纒向遺跡の南約3キロに位置する。
今回の仮面は、木製甲(よろい)など他の木製品とともに溝の中から出土。纒向遺跡の仮面と比較し、仮面の一部と判明した。祭祀(さいし)用に使われた後、壊れて棄てられたとみられる。
櫻井市纒向学研究センターの寺澤薫所長(考古学)は「纒向遺跡で初期ヤマト政権が成立し、その王権の下で作られた仮面で、纒向の仮面と同じ性格のものだろう。『カミ』(神)を表現し、農耕祭祀に使われたと考えられる」としている。
仮面は9月29日まで、同市芝の市立埋蔵文化財センターで公開される。
卑弥呼の墓では?と考えられている箸墓古墳を含む纒向遺跡とその周辺の遺跡からは、今後も新発見があることが予想され、この時代の全容が分かる日がやって来るのではと期待している。
NHK2013年02月20日 (水)柳沢 伊佐男 解説委員
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県の箸墓古墳で、きょう(2月20日)、研究者が立ち入る初めての調査が行われます。柳沢伊佐男解説委員に聞きます。
Q1:箸墓古墳とは、どのような古墳なのですか?
A1:奈良県の中部、桜井市にある全長およそ280メートルの巨大な前方後円墳で、皇室に関係があるとして陵墓に指定されています。
宮内庁では、この古墳を第7代の孝霊天皇の娘の墓と定めて管理しています。
Q2:皇族の墓が、なぜ、卑弥呼の墓ともいわれるのですか。
A2:その説を唱えているのは、邪馬台国が近畿地方にあったと考える研究者たちです。
古墳がつくられたのが、3世紀半ばか、後半という研究成果があり、卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一致することが、最も大きな理由です。
また、当時、近畿地方にあった古墳の中で、規模が最も大きく、強大な力を誇った卑弥呼にふさわしいという考えもあります。
箸墓古墳が卑弥呼の墓とすれば、邪馬台国が近畿地方にあったとする有力な根拠にもなるのです。
Q3:研究者が古墳に立ち入るのは、今回が初めてになるのですね。
A3:箸墓古墳もほかの陵墓と同じく、皇室の祭祀、祭りをする場所として、一般の人の立ち入りが厳しく制限されています。
このため研究者たちは、陵墓には、古代国家の成立を考える上で欠かせない文化財としての価値があると訴え、公開を求めて宮内庁と交渉を重ねてきました。
最近になって、研究のための立ち入りが一部で認められるようになり、大きな目標としていた箸墓古墳の調査が実現することになったのです。
Q4:きょう(2月20日)の調査はどのように行われるのですか?
A4:研究者の団体から代表の16人が参加し、古墳のすその部分をぐるりと歩いて、盛り土の形や特徴を観察することになっています。
途中で発掘をしたり、土器を採取したりすることは、認められていませんが、古墳を間近に見ることで、図面ではわからない盛り土の特徴などが確認できるかもしれないということです。
纒向遺跡の布製品は国産の絹か
NHKニュース2013年5月30日 18時58分
邪馬台国の候補地の1つとされる奈良県桜井市の「纒向遺跡」で見つかった3世紀の布製品が、国産の絹で作られていた可能性が高いことが成分分析の結果、明らかになりました。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、邪馬台国が国産の絹製品を贈ったという記述があり、関連が注目されます。
この布製品は、大型建物の跡などが見つかり邪馬台国の有力な候補地の1つとされている桜井市の纒向遺跡で20年余り前に出土しました。
邪馬台国の時期と重なる3世紀に作られたとみられ、高さと幅が3センチほどの巾着の形をしています。
この布製品について、奈良女子大学の中澤隆教授などの研究グループが繊維に含まれるたんぱく質の成分を詳しく分析したところ、中国やインドの蚕が作る繭とは成分が異なった一方で、日本に古来から生息する蚕とは特徴が一致したということです。
このため研究グループは、布製品は国産の絹で作られた可能性が高いとしています。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、邪馬台国が「奴隷などと共に国産の絹製品を献上した」という内容の記述があります。
これについて中澤教授は、「記述を裏付けるものかどうか議論を始める第一歩と言える。今後、九州でも確認されている古代の絹の分析を進め、当時の生産状況を明らかにしたい」と話しています。
また、長年、纒向遺跡の調査に携わってきた兵庫県立考古博物館の石野博信館長は、「魏志倭人伝の記述と関係する可能性がある。邪馬台国の近畿説と九州説を比べるための材料が増え、今後、検証が進むことが期待される」と話しています。
今回の調査を第一歩に研究の実績を積み重ね、将来的には、誰の墓かわかるような成果を期待したいと思います。
それが古代の謎の解明につながればと、研究者はもちろん、古代史ファンの関心も高まりを見せています。
「魏志倭人伝」の記述とは
「魏志倭人伝」は3世紀に作られた中国の歴史書、「三国志」の一部に収められています。
「邪馬台国」の規模や、女王・卑弥呼について書かれ、当時の日本列島の姿を知るうえで重要な資料です。
この中で、卑弥呼は中国の魏の皇帝に使者を送り、「親魏倭王」に任命されたと記されています。
また、西暦243年に倭の国の王が使者を遣わした際の献上品の中に「倭錦」ということばがあり、当時、国産の絹製品が重要な贈り物になっていたことがうかがえます。
Listening:奈良・纒向遺跡:出土の花粉はバジル 卑弥呼の時代か
毎日新聞2013年05月31日
大和王権発祥の地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、1991年に出土した花粉が3世紀中ごろのバジルだとする論文を、金原(かねはら)正明・奈良教育大教授(環境考古学)が30日発表した。熱帯アジア原産のバジルは、江戸時代に薬用として中国から持ち込まれたとされていた。国内最古例の発見で、女王・卑弥呼(248年ごろ没)の時代の国際交流を物語る貴重な発見と言える。
桜井市纒向学研究センター研究紀要に掲載された。花粉は、同遺跡の中心部にある3世紀中ごろの溝(幅約1.5メートル、深さ約1メートル)の土壌から、ごく微量検出され、何の植物か分からないままだった。金原教授によると、顕微鏡で別の発掘調査で集めたシソ科メボウキ属のバジルの花粉と比較した結果、形態がほぼ同じだったという。更に細胞の傷み具合から、後世に混入したものではないことが分かった。
同じ溝からは、過去に中国から染織技術と共に持ち込まれたとされるベニバナの花粉が見つかったほか、寄生虫の卵も確認され、染織の廃液や汚水を流していたとみられる。バジルも上流から流れてきた可能性が高い。
バジルは寒さに弱いため日本での自生は難しく、国外から持ち込まれたらしい。葉は香りが強く、夏から秋にかけて白や紅色がかった花を咲かせる。種は水につけるとふくらみ、ゼリー状の物質が出る。3世紀中ごろの用途は不明だが、江戸時代には目に種を入れるとごみが取れるとして「目箒(めぼうき)」という和名が付いた。
3世紀の日本について記した「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、中国・魏と卑弥呼が都とした邪馬台国などとの交流が記されている。金原教授は「ベニバナと同様、魏を通じてバジルが持ち込まれた可能性がある。纒向遺跡が国際色豊かな特異な地だったことを示している」と話している。【矢追健介】
【ことば】纒向(まきむく)遺跡
奈良県桜井市の三輪山西部の裾野に広がる3~4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロで最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳などが点在する。各地から持ち込まれた土器が出土し、邪馬台国の最有力候補地とされる。
纒向遺跡内に所在する主な古墳
箸墓古墳(桜井市大字箸中)桜井市纒向学研究センター
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125m、前方部前面の幅は147mです。墳丘は葺石(ふきいし)を持ち、後円部が5段、 前方部前面が4段の段築(だんちく)
で構成されますが、前方部側面にも段築の存在が想定されています。この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定されており、一切の立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では1994年に前方部北裾の調査が行われ、墳丘の基壇(きだん)とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が面的に検出されています。さらに、 1998年の後円部東南裾部の調査では、葺石を施した渡り堤や周濠(しゅうごう)、外堤状の高まりが確認されています。
この古墳からの出土品には、直接古墳に伴うものではありませんが布留1式期と現存最古の木製輪鐙(もくせいわあぶみ)(4世紀初め)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、 墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された特殊器台(とくしゅきだい)や特殊器台形埴輪(とくしゅきだいがたはにわ)、 特殊壷(とくしゅつぼ)、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあります。古墳の築造時期は布留0式期の3世紀後半と考えられ、最古の定形型前方後円墳といえます。
バジル(神目箒か?)の花粉と見られる出土物については、古代の人と文化の移動のスケールの大きさに驚かされる。海洋や陸上移動の大変さを古代人がらくらくとクリアしている例は、貨幣として現在も大きな役割を果たしている貝の移動が揚げられる。沖縄宮古島のタカラガイが殷墟で出土していることや中国甘粛省の石器時代の遺跡からの出土などのように内陸部への移動が挙げられる。
バジルの薬効を考えると早い時代に移入されていたと考えてもよい。紀元前二千三百年ころインダス川流域に発達したインダス文明に続き紀元前千五百年にインド・ヨーロッパ族のアーリア人が侵入したヴェーダ時代にヒンズー教の宗教詩歌集『』アユールヴェーダ』に医学や薬についての記載があり、現代に至るまでの伝統医学として伝えられているが、植物医薬の中にホーリーバジル(神目箒=トゥルシー(tulsi))の記述があり神聖な薬効の活用を様々な場面で運用している。
Shri Yash Raiによるものを大矢泰司が約した「ホリーバジルへの祈り」「ア–ユルベーダ叢書」より
吉祥女神の友にして、愛を体現したるもの
罪障から解きはなち、功徳を積ませるもの
その勲し、たえずナーダラ仙に謳われたる
ナーラヤナ(ヴィシュヌ神)の想いびと
おお、母なるトゥルシー、なんじに敬礼す
婆羅門、トゥルシー、菩提樹、牝牛、恒河
これらにもまして偉大なるもの、現世になく
つねに、かれらとの交わりを求めるがよい
牝牛とトゥルシーを持つ家に、病は訪れぬ
これぞ、息災のすべてのおきての精髄なり
玄関にトゥルシーをかまえる家は聖地なり
死神の使者はかような家に入ること叶わず
風はトゥルシーの香りを運びて、辺りを浄化す
沖縄の宮古島に約2000年前に入ってきたといわれており、神目箒の由来は目に入ったごみをとるためにトゥルシーを使ったところ、ゼリー状の物質でごみが取れたことによるという。
桜井市纒向学研究センターの記述によると
メクリ地区の木製仮面(桜井市大字太田)
纒向遺跡第149次調査において朱塗りの盾(たて)や鎌柄などの多数の遺物とともに庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.5cmを測ります。 アカガシ亜属製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用していますが、両目部分は新たに穿孔しており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現も施されています。 また、眉毛は線刻によって表現されています。木製の仮面としては国内最古のものです。
とされているが 最古の木製仮面出土 奈良・大福遺跡 産經新聞2013.5.30 19:22
奈良県桜井市の大福(だいふく)遺跡で、弥生時代末期-古墳時代初め(2世紀後半ごろ)とみられる木製仮面の一部が出土し、市教委が30日、発表した。市内の纒向(まきむく)遺跡では平成19年、3世紀前半の木製仮面がほぼ完全な形で出土しているが、これよりも今回の仮面は古く、国内最古の木製仮面という。
仮面はコウヤマキ製で、縦約23センチ、横約7センチ、厚さ約5ミリ。人の顔をかたどった仮面の右半分にあたり、目や口の部分をくりぬいて表現している。ひもを通す小さな穴も付いていた。
大福遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての大規模集落跡で、初期ヤマト政権の中心部ともされる纒向遺跡の南約3キロに位置する。
今回の仮面は、木製甲(よろい)など他の木製品とともに溝の中から出土。纒向遺跡の仮面と比較し、仮面の一部と判明した。祭祀(さいし)用に使われた後、壊れて棄てられたとみられる。
櫻井市纒向学研究センターの寺澤薫所長(考古学)は「纒向遺跡で初期ヤマト政権が成立し、その王権の下で作られた仮面で、纒向の仮面と同じ性格のものだろう。『カミ』(神)を表現し、農耕祭祀に使われたと考えられる」としている。
仮面は9月29日まで、同市芝の市立埋蔵文化財センターで公開される。
卑弥呼の墓では?と考えられている箸墓古墳を含む纒向遺跡とその周辺の遺跡からは、今後も新発見があることが予想され、この時代の全容が分かる日がやって来るのではと期待している。