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よしなに

2018-01-29 14:26:34 | 記録
  「アスクレピオスの杖」は、翼と蛇の巻き付いた杖の図像です。医療や医術の象徴として世界中で用いられているギリシャ神話の名医アスクレピオスが持っていたといわれている杖です。日野原重明氏が診療なさっていた聖路加国際病院には、医療の守護聖人「聖ルカ」の名と共に「アスクレピオスの杖」が中心にある病院のマークが入り口に掲げられています。初代アメリカ公使ハリスの居留地住宅が敷地内に移設されていますが、築地居留地は、福沢諭吉の菩提寺である善福寺境内にあったものが移設されたといわれていますが、居留地は、数カ所移設されて後に、現在は、聖路加国際病院の敷地内にあります。
 道を挟んで向い側には、「日本蘭学発祥の地」記念碑と「慶応義塾発祥の地」記念碑が並び立ち、この築地界隈一角は、日本の近代化の象徴となるものがあります。築地本願寺や幕末の藩邸下屋敷、泉岳寺などもあり、歴史や医療の発展の一端を知ることができます。
 また、最近、美食の聖地として脚光をあびている、スペインバスク地方のサンセバスチャンは、スペイン王妃が療養の地として選び快癒したことでも知られていますが、紀元前ローマ皇帝デミトリアヌスの親衛隊長だったセバステアヌスが善行を行い、病気平癒の聖人「聖セバステアヌス」とされた故事にちなんでいることでも知られています。
 「聖セバステアヌス」は、ペスト流行で激減した中世から近世にかけて欧州で、信奉され、ルネッサンスには、著名な画家が競って描いています。ルーブル美術館にも何点か収蔵されており、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 一年一回の健康診断で、思いがけない結果を突きつけられて狼狽してしまい、相談を受ける事がよくありましたが、今回は、私でした。守護聖人の方々に祈りを捧げても、検査結果は冷酷です。最終診断は、二月初めになりそうですが、十年前のようにクリアできることを念じています。
 連綿と続いて来た人間の病との格闘は、予防医学の進展や先進技術の導入、先端医療などで、成果をあげ、医療従事者は、対処療法の中から最善の方法を駆使して健康寿命を延ばしてきました。
 「人はどこからきてどこへいくのか」「人類とは?」をご研究の研究者の方々は、発掘された骨を分析し、移動の経緯や定着した人の痕跡を探しています。その途上で、病気に罹患した痕跡や激しい戦闘での無惨な死を骨格の傷に見、未知の病原菌に遭遇したと考えられる不審な痕、そして、異なった遺伝子組成の混在に遭遇することもあるようです。
 様々な情報に接することができる今日ですが、自分自身についての具体的な対処法を選択することは、大変狭い範囲の中からと言わざるを得ません。治療は、よしなに、と、お願いするより他ありません。
 果たして、「アスクレピオスの杖」は…。

古代城柵官衙遺跡推定地を見学して

2018-01-06 16:05:05 | 記録
 巡見(見学研修)のために準備された講演会、浅井勝利「新潟県の城柵と駅家研究の現状」(4月29日)と阿部明彦「出羽国の山道駅家と水道駅家」(8月26日)によって、越国・出羽国の城柵と駅家についての発掘事例や関連する事柄がおぼろげながらイメージできるようになりました。
 浅井氏(新潟県立歴史博物館専門研究員)の講演内容は、小林昌二氏の科研費(2000〜2003年、成果43件)による「前近代の潟湖河川交通と遺跡立地の地域的研究」を主体とする研究成果の紹介でした。
 阿部氏(山形県埋蔵文化財センター)の講演内容は、第40回古城柵官衙遺跡検討会(2014年、山形市)のテーマ「古代出羽国の城柵と交通 -駅家・道路・交流-」を提起することになった中村太一「陸奥・出羽地域における古代駅家とその変遷」(2003年国文学第179号)に至る諸文献の紹介とご自身の「出羽国の古代研究 –水駅と郷家-」(考古学ジャーナル、2015年669頁)、”うきたむ風土記の丘考古資料館”の「出羽の国ができるころ」(2008年)・「平安初期の南出羽」(2010年)の記述を紹介しながらの講演でした。
 2017年9月27日(水)〜28日(木)の巡見に出発する際には「新潟県の城柵・駅家推定地巡見 –山田遺跡・古代念珠ケ関跡・磐舟柵推定地・牡丹山諏訪神社古墳・八幡林官衙遺跡を巡る-」の資料が配布されました。資料は、巡見工程図、行程時間割、遺跡の概要、渟足柵・磐舟柵・都岐沙羅柵の史料、山田遺跡、古代念珠ケ関跡、磐舟柵推定地、牡丹山諏訪神社古墳、渟足柵推定地、八幡林官衙遺跡・下ノ西遺跡についての資料や史料で構成されており、調査報告書の抜粋などと遺跡の地図などが添付されていました。午前7時に秋田城跡管理棟駐車場、秋田県庁前、由利本荘市のカダーレ、にかほ市のローソンで参加者がバスに乗車して目的地へ向いました。
 鶴岡市山田の山田遺跡は、1987(昭和62)年の分布調査で東西・南北共に800mに及び細長い三日月形の遺跡範囲が確認されていますが、1989(平成元)年の県営圃場整備事業に係る部分は県道大山–湯田線以東の南北500m、東西150mの部分で、主に平安時代に帰属する遺構・遺物が検出された区域です。古墳時代の遺物を出土する地点は、西方に位置しています。調査は、破壊が確定的なパイプライン部分のみを対象にし、東西方向に長い3本のトレンチで調査面積は合計670㎡・調査期間は8月29日から9月9日まででした。この遺跡は、羽越本線羽前大山駅を含む広い範囲で、駅前南に広がる地域には鶴岡大山工業団地の大きな看板が掲げられていました。羽前大山駅前の南側には、TDK庄内と出羽工業が立地していました。資料によると、山田遺跡の周辺には前期古墳など古墳時代から奈良・平安時代の遺跡が多く分布し、山田遺跡の発掘調査では、掘立柱建物跡.竪穴住居跡・柵列跡・河川跡と共に木簡・斎串等が出土しており、北陸道関連官衙・駅家や周辺駅家の可能性が推定されています。現況から、それらの姿を推察することは困難と思われましたが、周囲を見渡して起伏や広範な工業団地の様子を眺めて、往時を偲ぶことはできたのではないかと思います。なお、詳細は、「鶴岡西部地区遺跡群 助作遺跡山田遺跡発掘調査報告書-山形県埋蔵文化財調査報告書 第143集-1989(平成1)年 山形県・山形県教育委員会」に記述されており、発掘成果と共に発掘に至る諸事情と郷土愛を感じ取ることができます。
 鶴岡市(旧西田川郡)温海町の古代鼠ケ関跡は、念珠ケ関とも言われ、古来より様々な逸話が残されています。勿来関、白河関と共に奥羽三関の一つで、平安時代から室町時代の関所が置かれていたとされています。古代には蝦夷地との境界地点に都岐沙羅柵が置かれていたと伝えられていて、一時、古代鼠ケ関跡のこの地がその跡ではないかと推定されていました。鼠ケ関は、羽越の境に設置され、江戸時代までに数回移転したとも言われています。鼠ケ関は、『日本書紀』・『吾妻鏡』・『義経記』などに記述が見られ、能因法師の歌枕の地として十世紀ころには旅人に親しまれ、幕末には唐船番所があったとも言われています。また、戊辰戦争時に庄内藩の兵が数ヶ月支えたことでも知られています。海に突き出た弁天島は、源義経の東下り縁の地ですが、今は、燈台が航行する船舶の目印になっています。羽越本線鼠ケ関駅を左に、古代鼠ケ関址の石碑への道を急ぐと路上に、山形県と新潟の県境が線引きされており、記念スタンプを置いたスタンドがあって、夫々の県を象徴する図柄のゴム印が置かれていました。県境を眼で確かめることが出来きることは僥倖というべきで、両側の町並みやバス路線の通る道とバス停もいつも見る風景とは違って見えました。「温海町指定史跡 古代鼠ケ関址および同関戸生産遺跡」の看板解説によると「古代鼠ケ関の遺跡は、「千鳥走行型列址並建物址」(D地区)のほか「製鉄址」(A地区)「土器製塩址」(B地区)「須恵器平窯址」(C地区)からなっている。つまり軍事警察的な防御を目的とする関所としての施設とその内にそれを支える高度の生産施設をもった「関戸集落」によって「関」が成立していた。平安中期の出羽国の開拓もずっと北にのびた階段で、南を検問し防備する関門としての性格を物語っているのである。」(平成十年十一月 温海町教育委員会)
 律令制下で、非常事態発生時に「固関」が行なわれましたが、最古の固関は721(養老5)年の元明天皇崩御の時で、古代三関(鈴鹿関・愛発関(後に逢坂関)・不破関)を封鎖して通行を禁じました。789(延暦8)年に「三関」の制度は廃止されましたが、固関が必要な時には関の跡地を封鎖する手続きが取られていることから、奥羽三関も同様の役割を果たしていたのではと推察されますが、2019年4月30日 の天皇陛下の生前退位に伴い「固関」を高速道路のインターチェンジ閉鎖として行なうことが検討されています。
 越国は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部地域の大化の改新以前の古代の呼称で、継体天皇の出自と深い縁で結ばれていると考えられています。新潟県に設置されたとされている磐舟柵と渟足柵は、いまだ、同定されていない幻のような存在なのですが、その推定地を巡ります。
 『日本書紀』648(大化4)年是歳条に、越国に置かれ8世紀初め頃まで存続したといわれている磐舟柵の推定地は、新潟県村上市岩船の岩船神社並びに諸上寺のある浦田山一体と考えられており、終戦の前年、1944(昭和19)年浦田山北西部に防空壕を掘った折に石廊堡と考えられる石組の一部が発見され、1955(昭和30)年村上市の失業対策事業の工事で沢山の石組を発見し、発掘調査が実施されました。
 「新潟県文化財調査報告書第九「磐舟」= 磐舟柵調査報告書 -」新潟県教育委員会(1962(昭和37)年の序では[昭和三十二年、村上市瀬波河岸段丘に工事中発見された石累様の構築物が端緒となって、国・県・市の協力下に磐舟柵緊急調査事業が開始された。文化財保護委員会斎藤忠博士を顧問とし、…然しながら、一面石廊堡のごとき動かし難い防御施設の発見にもかかわらず、ついに柵の全貌を直裁に示す明確な遺跡遺構には逢着することがなかった。…更に続行すべき数多の課題を残しつつ、第三次調査を以って一先づ打ち切らざるを得なかった次第である。従って、限りない期待と推測をはらみつつも、学術報告書の立場から、あくまで調査の客観的成果に即した忠実な報告書として編集されたものである。本書が手がかりとなって、今後の新しい発見や考証が導き出されるならば幸いこれに過ぎるものはない。]また、結びによると、「私としては、ここを磐舟柵のあったところと決定することにはなお逡巡せざるを得ない。…この地域が或は磐舟柵跡とも考えられるのではないかということ。別な表現をとれば、将来磐舟柵を決定する上に重要な候補なるのではないかということであり、従来のかるい漠然とした考えからはるかに前進したということである。私はこの表現でむしろ満足したいのである…事実は事実として私見を加えずまとめた本文の内容こそ、忠実な報告書として重要な意義をもち、今後の磐舟柵跡探求の新たな展開の基礎となり、動機となり、そして不朽の価値を持つことを確信しているのである。将来、磐舟柵跡の決定は、柵跡を示す動かすことのできぬ痕跡や、政庁等の重要な建物の遺構や墨書銘等のもつ土器などの有力な資料の検出によってなされるべきであり、むしろ、今回の調査が契機となって、その機運の到来することを心から念願してやまない。」とされており、磐舟柵跡と同定できる出土遺物が検出されなかったことが確認されています。このことは、柵跡などの同定には、政庁等の重要な建物の遺構や墨書銘等の土器などの有力な資料の検出が重要な決め手となることを示唆しています。
 また、文化財調査報告書第九第三節 威奈大村と越後城では、威奈大村骨臓器、威奈氏出自及び世系、越後守と越後城司、越後城の歴史的意義—大村の生きた時代に触れ、「先に触れた内外二面に亘る問題の根本的解決は、次の奈良時代に於ける陸奥、出羽方面の鎮撫と、三世一身法等による田土開拓の問題が、より大いなる形態に於いて解決されることとなったのである。」と結すんでいます。この言葉は、暫時北進する城柵官衙の明確で具体的な目的が的確に示されています。
  威奈大村 662(天智天皇1)年-707年5月29日(慶雲4年4月24日)は、飛鳥時代の貴族で、氏は猪名・威奈、姓は真人、威奈鏡公(額田鏡王)の三男、正五位下・越後守。『続日本紀』には、猪名真人大村(御裝副官・越後守)と記され、『猪名真人大村骨臓器』の墓誌には威奈真人大村とのみ記され、任官等は記されていません。そして、『続日本紀』では、706(慶雲3)閏正月に越後守に任官しています。越後城・越後城司は、『威奈真人大村骨臓器』の墓誌にしか現れない城柵と任官名ですが、大村が最初の越後城司≠越後守だったのではと推察されます。墓誌は、越後城司としての大村の統治の仁政を称えています。707(慶雲4)年 2月に正五位下に進み、同年4月24日に任地の越後国で死去。享年46歳でした。最終官位は越後守正五位下。遺骨は大和国に持ち帰られ、同年11月に大和国葛下郡山君里狛井山崗(現在の奈良県香芝市穴虫字馬場)に帰葬されました。この骨臓器(金銅製の球形容器で蓋と身が反球形に別れる)には、蓋裏に1行10字詰めで39行319字の銘が刻まれています。(佐賀県出土の類似のものがある。)『威奈真人大村骨臓器』は、江戸時代明和年間に奈良県香芝町で農民によって発見されています。同様の経過で発見されているものには、福岡県志賀島で発見された金印「漢委奴国王」があります。
 この「新潟県文化財調査報告書第九「磐舟」」は、秋田県立図書館に冨樫泰時氏が寄贈したものですが、これまでも度々冨樫氏が同館に寄贈した文献の恩恵に浴しています。昨年度の秋田考古学会総会の講演の折にも、真崎勇助氏ら秋田考古学会の先達の著書を回覧していただき、先人の業績の上に今日があることを学ぶことができ感謝しています。
 その後、1989(平成元)年と1994(平成6)年に新潟大学による石組み遺構と周辺の分布調査の結果、石組みは6世紀前半の古墳と判明しました。一帯で発見された古墳時代の遺跡から石組み遺構は、「浦田山古墳群」の一部とされています。(配布資料)海の方角に立っている岩船神社の鳥居を背に拝殿に参拝し、台風が沢山の木々の葉を散らした参道を下って、カラスアゲハが蜜を吸っている真っ赤なはなしはななし(=曼珠沙華=彼岸花)の咲く諸上寺に参った後、諸上寺公園のある浦田山に登りました。山頂の四阿からは、日本海を一望でき、彼方に粟島と佐渡島を望むことができました。螺旋状になった桜並木の道の山野草の繁る斜面には、ヤマトシジミやヒョウモンチョウ、イチモンジチョウが舞い舞って、草の葉の陰に隠れたり飛んできて茎や葉に止まったりと忙しく飛び回っています。
 四阿から白い石が見えたので近寄ってみると種田山頭火が村上市を訪れた時に句会が催された記念碑でした。種田山頭火(1882(明治15)年〜1940(昭和15)年)は、1936(昭和11)年に甲州から信濃を経て越後路に入り、小林一茶や良寛ゆかりの地を訪ねています。松尾芭蕉の「奥の細道」の逆ルートで山形へ向かう途中、村上で過ごしました。諸上寺公園(村上市岩船626)に、1989(平成元)年6月「こしの山頭火の会」が、「砂丘にうづくまりけふも佐渡は見えない」他2句の句碑を建立しました。
 諸上寺の創建は不明ですが、当初は感応寺という天台宗の寺院でした。一説によると684(大化4)年に磐舟柵が築かれた前後に開基されたとされ、927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳に記載されています。磐舟郡8座の筆頭石船神社もあり、当時は行政、文化の中心だったと考えられています。諸上寺の伽藍配置と規模が、大宰府政庁と類似点が見られるので、境内は磐舟柵の政庁的な役割を担った施設跡とする説もあります。衰微した時期もありますが、1475(文明7)年に当時の耕雲寺住職の5世徳厳宗欽禅師が荒廃した堂宇を再興し、曹洞宗の寺院として改宗開山して、寺号を海巌山諸上寺と改めました。その後の経緯は省略しますが、庭園は裏山を借景とした名園とされ「花を見るなら岩船の諸上寺、梅に桜につつじに椿、咲いてからまる藤の花」と唄われてきました。今も、春になると、ソメイヨシノと八重桜の約500本の桜が、ゴールデンウィーク頃まで咲き誇り、花見に来た人たちの目を楽しませています。『日本書紀』の648(大化4)年是歳条に、「磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置いた」とあり、前年には渟足柵が造られており、北方の備えにあたったが、磐舟柵は北の荒川と三面川の両河口のほぼ中間地点であり、最前線の拠点だったと考えられています。その後、『続日本紀』698(文武天皇2)年12月21日に越後国に石船柵を修理させたと記され、700(文武天皇4)年2月19日には越後国と佐渡国に石船柵を修営させたとの記述がありますが、磐舟柵に関する記録は、この700年で途切れ、708年頃さらに北に出羽柵が建てられ、最前線の柵は出羽柵に替わったと思われます。このとき廃絶された可能性もありますが、養老年間(717年 - 723年)まで渟足柵が存在したことが分かっているので、磐舟柵も続いた可能性もあります。でも、結局のところいつ廃されたかは不明です。
 磐舟柵と渟足柵など初期の城柵の遺跡は未だ見つかっていませんので、この当時の柵がどのようなものだったかは推測や推察、推定などの言葉で語るほかない状況です。
  渟足柵は、越国(高志国/古志国-時代と分割・記録媒体などによって表記が変わる)にあった日本の古代城柵で「沼垂柵・沼垂城」ともいわれ、647(大化3)年に築かれたとされています。詳細な所在地は不明ですが、現在の新潟県新潟市東区にあったと考えられています。越国(高志国)の北端は、642(皇極天皇元)年頃には現在の新潟県の弥彦山と長岡市を結ぶ辺りであったと考えられています。
 645年の乙巳の変後に即位した孝徳天皇が、646(大化2)年正月1日に改新の詔を示し、大化の改新という体制変革が起こりました。翌、647(大化3)年には渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)が造られて柵戸が置かれ、翌、648(大化4)年には磐舟柵(新潟県村上市岩船辺り)が設置され蝦夷に備えました。
 なお、史料にはありませんが、この時期の太平洋側では陸奥国に郡山遺跡として知られる名称不明の城柵が造られました。
 658(斉明天皇4)年7月4日に、渟足柵造の大伴稲積が、蝦夷の朝献に際して小乙下の冠位を授けられました。この時には、位置不明の都岐沙羅柵造とともに、多数の蝦夷が位と物を授かりました。蝦夷が招かれたのは阿倍比羅夫の北航の成果で、渟足柵造が何らかの役割を果たしたことが推察されます。文献史料にみる渟足柵の跡はここで途切れますが、1990年に、新潟県三島郡和島村(現・長岡市)の八幡林遺跡で、「沼垂城」「養老」という字が書かれた木簡が出土しました。つまり、養老年間(717年 - 723年)に渟足柵が沼垂城の名で機能していたと推定できます。また、威奈大村墓誌に見える705(慶雲2)年の越後城を改名した渟足柵ではないかとする説もあります。威奈大村が任官されていた磐舟柵の位置は、渟足から北東に約40kmの村上市岩船の辺りと推測されています。
 渟足柵は平安時代の『倭名類聚抄』に見える沼垂郡沼垂郷にあったと考えられています。沼垂は、近世以降現在に至るまで沼垂という地名が残っています。地形的に信濃川と阿賀野川の合流点付近の海岸平野で、水運が重要だった当時の高志(越)の実情に合った立地です。でも、単純に現在の沼垂とすることはできないのは、沼垂町が河道変化の影響で近世の初めに4度も場所を変えたことが知られているからで、最古の場所は現在の新潟県新潟市東区の王瀬なのですが、中世に移転した可能性があり、古代の沼垂の正確な位置は不明です。王瀬ではボーリング調査によって古代の水田跡が見つかっています。
 新潟市東区牡丹山4丁目の牡丹山諏訪神社は、境内に2014年の発掘調査で古墳と
確認された円墳があります。以下の情報は、新潟大学人文学部考古学研究室・牡丹山諏訪神社古墳発掘調査団、新潟大学旭町学術資料展示館、日本経済新聞、共同通信社、毎日新聞社、読売新聞社、牡丹山諏訪神社古墳まつり実行委員会、新潟市文化スポーツ部文化政策課の発信したものを要約したものです。
 この古墳の被葬者は、まだ分かっていませんが、2017年4月に鎧の破片が見つかりました。古墳の被葬者特定の有力な手がかりになればと考えていますが、群馬県渋川市の金井東裏遺跡で2012(平成24)年11月に6世紀初頭に噴出した榛名山の火山灰や火砕流で埋まった溝の中で「甲を着た古墳人」が発見され、発掘された鎧の復元も行なわれましたが、この人物も、まだ誰だったのかは分かっていません。
 2014年9月17日読売新聞
 新潟市東区の牡丹山諏訪神社内に、5世紀頃に造られたと思われる古墳があったことが、新潟大人文学部の橋本博文教授(考古学)らの調査で明らかになった。古墳からは大和政権とのつながりを示唆する須恵器の破片も見つかった。橋本教授は「大和政権と密接な関係を持つ有力者がいた可能性を示しており、非常に重要な手がかりだ」と話している。同神社では2013年8月、5世紀前半に作られた円筒埴輪の破片が発見されたことから、橋本教授らは神社内に古墳があるとみて調査していた。昨秋の測量・地中レーダー探査、今月1日に始めた発掘調査の結果、本殿近くの参道を中心に直径約30~36メートルの円墳があることがわかった。周囲には堀が巡らされ、80~120センチ掘り下げた地中からは、周りに置かれていたとみられる円筒埴輪の破片も約200個見つかった。 また、縦6センチ、横4センチ、厚さ8ミリの須恵器の破片も発見された。波模様が3段あることなどから、5世紀前半の須恵器で、つぼなどを載せる台として使われていたものという。須恵器は、大和政権が朝鮮半島から職人を呼んで技術を取り入れ、堺市などの陶邑窯跡群で作らせて地方の有力者に配ったとされる。その破片が見つかったことから、古墳は当時大和政権とつながりのあった有力者の墓の可能性が高いという。 橋本教授によると、見つかった須恵器の破片は県内最古。三条市や胎内市などで見つかっている古墳から、下越地方には4世紀頃まで有力者がいたことはわかっていたが、その後は南魚沼市などに有力者の痕跡が移っており、5世紀頃の下越は「空白の時代」となっていた。橋本教授は「7世紀に東区にあったと推測されている大和政権の軍事拠点『渟足柵』にもつながる発見だ。当時の新潟が大和政権で重要視されていたことを解明していきたい」と話している。
 【市民文化遺産】
2013(平成25)年、円筒埴輪片が発見された牡丹山諏訪神社で2014(平成26)年9月1日から10日にかけて新潟大学人文学部の橋本博文教授らの調査団が発掘調査を実施。数多くの遺物の中から、5世紀前半の直径約30メートルの円墳があったことが分かりました。
新聞やテレビなどでも大きく報道され、調査の現地説明会では、世代を超えて多くの地域住民が参加するなど、地域の誇りづくりや一体感醸成に貢献しています。(新潟市文化スポーツ部文化政策課)
 2017年3月31日毎日新聞
県内最古の鎧出土 大和朝廷が有力視する武人か /新潟
 5世紀前半、古墳時代中期の「牡丹山諏訪神社古墳」(新潟市東区)の調査団は30日、 古墳内から鎧の鉄片を発見した。古墳時代の鎧としては県内最古、日本列島最北の出土という。鎧は大和朝廷から有力者に与えられた可能性があり、埋葬されているのは朝廷が一目置く武人だった可能性が高まった。古墳時代の鎧の発見は3古墳目、4例目。
 発見したのは調査団団長で新潟大人文学部の橋本博文教授(63)ら。鉄片は縦約2・8センチ、横約4センチ、厚さ約2ミリの2枚。穴が二つ開けられ、革ひもでくくりつけてあった。昨年9月の第3次調査で、直径約30メートルの円墳内で、約70センチ掘り下げた場所で見つかった。古墳からは、県内で唯一埴輪が出土しているほか、朝鮮半島から伝わったとされる豪華な須恵器の破片も発見されており、被葬者は大和朝廷からの信任が厚い有力者と想定されていた。鎧の出土でその可能性がさらに高まったという。橋本教授は「交通の便が良い信濃川と阿賀野川の合流点の河口地域を大和朝廷が重視し、ていたことが分かる貴重な発見。朝廷の勢力図を考える上でも重要だ」と話している。
 発掘調査は、2013年8月に橋本教授が神社の敷地内で円筒埴輪の破片を発見したのを機に、「古墳があるのでは」と開始。他の副葬品の発掘や被葬者の人物像を調査する。
 2017年5月1日日本経済新聞
 新潟市東区の「牡丹山諏訪神社古墳」から、5世紀初めの古墳時代中期のものとみられるよろい片が見つかった。古墳時代のよろいとしては日本最北での出土。当時は畿内しかよろいを作る技術がなく、大和政権とのつながりを示す史料として注目されている。調査団代表の橋本博文新潟大教授によると、2016年9月に発見。縦約3センチ、横約4センチで、厚さ約2ミリの鉄板が2枚重ねられていた。2カ所の穴に革ひもの跡があったことなどから短甲のかけらとみられる。同古墳からはこれまで、円筒埴輪(はにわ)や朝鮮半島由来とみられる須恵器なども出土。これらの出土品が有力者の古墳から相次いでいることから「被葬者は大和政権の信任が厚かったのでは」と話す。周辺には7世紀、蝦夷(えみし)対抗のため築かれた「渟足柵」があったと考えられており「この地は渟足柵ができる約200年前から有力な勢力があり、昔から魅力的だったと考えられる」と語った。信濃川と阿賀野川の河口近くで出土したことに着目するのは富山大の高橋浩二准教授。「水上交通の要衝だったとみられ、大和政権が物流や交通を掌握した地元豪族と結び付いた可能性がある」鹿児島大の橋本達也教授は、この時代のよろいは薄くて柔らかく、実戦には使用されていないと指摘。「所持していることが、大和政権との関わりを示すシンボルだったのでは」とし「有力者の古墳の分布状況などから、福島県北部や仙台平野で出土してもおかしくない」と、さらに北で出土する可能性を示唆した。調査団は9月23日まで再び同古墳を発掘調査する予定。〔共同〕
 なお、発掘調査の現地説明会は牡丹山諏訪神社境内で、発掘調査時の出土品は新潟大学旭町学術資料展示館で展示しました。
 27日は,じょいあす新潟会館に宿泊の予定ですが、到着後、懇親会が開かれ、今日の巡見のことなどを話しながら和やかに時を過ごしました。
 秋田城跡調査事務所・御所野学院高等学校・秋田県埋蔵文化財センターに勤務し、現在は、魚沼市教育委員会生涯学習課に勤務している藤本玲子さんが長い距離にもかかわらず勤務が終わってから車で駆け付けて参加して下さると言うことでしたので、到着を待ちながら、お料理を味わい差し入れられたワインなどを酌み交わしていると程なく、ドアがそっと開いて藤本さんが明るい笑顔と共に登場しました。秋田城跡の収蔵庫に学生時代に訪れた時と変わらない明るい笑顔。素晴らしい発掘実績を上げていることに心が満たされる思いでした。そして、みなさんと談笑しながら夜は深けて行きました。
 翌28日は、生憎の土砂降りの雨でしたので、早朝の散歩はできませんでしたが、朝食後、バスに乗り込みました。
 「道の駅良寛の里わしま」から長岡市立北辰中学校、和島野球場、海洋センターを経て山道を登って行くと八幡林官衙遺跡跡に辿り着きました。舌状台地の遺跡の先端からは田畑や国道116号線が見下ろせます。
  八幡林官衙遺跡は、新潟県長岡市島崎にあり、信濃川の支流、島崎川流域の谷に突き出た低い丘陵上とそれを取り巻く低地に所在し、1990(平成2)年に発掘調査が行われた結果、郡符木簡や「沼垂城」と記された木簡が出土し、1991(平成3)年からの調査では、木簡や「石屋大領」などの墨書土器など数多くの文字資料が確認されました。この墨書土器は9世紀ごろ、この遺跡が古志郡衙の郡庁の一角ないし「大領」の館だったことを意味しています。四面庇の建物跡、北陸道の道路などの遺構も確認され,他の墨書土器からも、古代北陸道の駅家が遺跡付近にあり、この遺跡が国府の出先機関や駅家などが併設された複合的な官衙であることも明らかになりました。越後の成立並びに阿賀野川以北の蝦夷を征服し、大和朝廷の支配下に組み込んでいく過程をうかがわせる重要な遺跡として、その後の研究に多くの資料を提供してきました。当時の行政事務を知る上での重要性が評価され、1995(平成7)年に国の史跡に指定されました。
 下ノ西遺跡は、八幡林官衙遺跡の南方800mで、水陸交通の要衝に立地しています。様々の遺物が出土し、1997(平成9)年、奇妙な絵を描いた板が発見されました。最初は、体の自由を奪う刑罰を描いたものか、といわれましたが、最近の研究で、中国古代の地理書『山海経』の一節を絵画化したものということがわかってきました。地方役人の教養を示し、習字木簡とは違った意味で重要な発見です。(新潟県立歴史博物館)
 復元木簡等は、歴史民俗資料館で新潟県文化財指定20周年記念「八幡林官衙遺跡出土品展」に先駆けて拝見し、向いの良寛の里美術館の展示をみて、寺泊に向かいました。
 この旅は、古代の支配体制構築のための施設探訪でしたが、律令体制は、今も変わらず生き続けています。私は、律令体制が整う前の人々の暮らしに寄り添う取り組みを進めて行きたいとも考えています。アニミズムやシャーマニズムという自然と共にある暮らしです。
  紀元前5〜4世紀頃の弥生時代前期の土壙墓群が見つかっている神奈川県足柄上郡大井町の中屋敷遺跡は、1934(昭和9)年の道路工事中に土偶形容器(国指定重要文化財)が出土したことで知られていますが、土偶形容器の頭部から内部の空隙に幼児の骨粉と歯が収納されていて、再葬にかかわる遺物とされています。この遺跡は,出土土器などから縄文時代終末から弥生時代中ごろとされてきましたが、遺跡の詳細は不明なままでした。昭和女子大学は、1999(昭和11)年から2004(平成16)年まで、6次にわたる調査を実施しました。第6次調査では、炭化米と炭化アワ・キビなどの雑穀とトチノキの実を土器などの遺物と共に同一土層で検出し、関東以北で最古級の資料です。土壙は、もともと貯蔵穴として使用された可能性も考えられ、稲作開始期の生業活動を知る貴重な成果です。(2005年9月遺跡報告)そして、2017年9月の発掘時に、東北の縄文時代の特徴を持つ土器と稲作の始まったころ西日本で盛んに作られた土器が同じゴミ穴から出土しました。それは、縄文晩期の東北地方で作られた特徴を持つ「亀ヶ岡式」と呼ばれる形式の系譜を引く土器片と伊勢湾周辺で作られた特徴を持つ「遠賀川式」と呼ばれる土器でした。関東周辺では、この時期の集落遺跡がほとんど見つかっていないので、縄文・弥生の境界での社会の変化がよくわかっていませんでした。中屋敷遺跡の以前の調査で出土した米が化学分析の結果、水稲で紀元前510〜前370年頃の関東最古のものと分かっていました。一方、トチの実や獣骨、黒曜石の石器の出土で米作りをしながら縄文的な生活も続けていた様子が見えて来たことと共に、ここが東北や西日本とつながりがあったことが分かりました。昭和女子大学の小泉玲子教授は「様々な地域の人が往来し、資源に恵まれた環境だったからこそ、いち早く稲作が伝わったのでは」と話しています。遺跡の周囲は田畑や果樹園が続くのどかな景観。弥生の初めからの眺めかもしれません。(山本暉久・小泉玲子「遺跡報告「中屋敷遺跡の発掘調査成果」要旨」、日本考古学第20号、2005年9月9日)
  足柄上郡は、晴れた日には富士山を仰ぎみることができる景勝地です。家々では、柑橘類などの果樹を植えていますが、暴れ川の酒勾川の治水対策に努力を重ねてきた地域でもあります。二宮尊徳は酒勾川の改修に尽力し、小田原城内の二宮神社に祀られています。酒勾川の治水対策は,夏の治水神の禹をモデルとしています。富士川、鴨川など日本の主な川の河川改修には、崇敬する治水神禹の方法がとられ、顕彰碑も建てられています。神奈川県足柄上郡開成町の郷土史家・大脇良夫氏が全国調査したところ禹関連の碑や像が多数見つかり、2010年以降「禹王サミット」を開催し、2013年「治水神・禹王研究会」を発足させました。研究会では、大禹の治水を学ぶ現地ツアーも行なっています。(機関誌「水の文化」40号大禹の治水、ミツカン水の文化センターなど)
  一万年以上平和で豊かな社会を営んでいたことが世界の賞賛を浴びている縄文時代と弥生時代の交錯が中屋敷遺跡の出土遺物から分かりました。国学院大学文学部史学科教授の谷口康浩氏は、「縄文の人々は、何故か弥生の稲作をちょっと受け入れてみたのです。安定して豊かな社会を営んでいたのに…」と話されています。(「縄文時代の社会と儀礼祭祀」2017年8月20日、同大学院友会秋田県支部平成29年度文化講演会)
  縄文文化の奥深さを記述した書籍には、小林達雄編「縄文ランドスケープ」2002年10月26日や森下年晃『星の巫』2009年6月23日がありますが、森下年晃『星地名』2012年8月30日は、2011年3月11日に発生した「東日本大震災」を回避できたであろうことを示唆する縄文人の知恵が詰まった好著で無明舎出版の尽力で発刊されています。
  巡見の最後に訪れた長岡市は,「米百俵」、「長岡の花火」、「山古志の棚田・棚池」や岡本太郎に「芸術は爆発だ」と言わしめた約5000年前の火焔土器の出土地としても知られています。昨年度末に「特別展 火焔型土器のデザインと機能」が、国学院大学博物館で開催され、14000人の人々が鑑賞しました。来年の秋には、「特別展 国宝公開 火焔型土器と西の縄文」が京都大学総合博物館で開催されます。”2020年の東京オリンピックの聖火台に火焔型土器を”キャンペーンの一貫です。火焔土器・火焔型土器は、口縁部に鶏をかたどった縁飾りがあるものなど、華麗な装飾があり、縄文時代には珍しい蓋形土器も作っていました。煮炊きに使用した深鉢形土器も蓋を受けることを意識して作られていて、蓋形土器の内側にはオコゲが付着しているものもあり、単なる飾りでなく実際に使用されていたことが推察されます。*使用は、一部地域限定。
  小林達雄氏は、土器の底面に編み籠の圧痕が残っていることなどから“縄文土器の起源は編み籠”では、と考えています。2015年12月佐賀市・東名遺跡から8000年前の編み籠が出土し、740点にのぼる編み籠は、湿地性貝塚の中で保護されていました。「六つ目編み」・「ござ目編み」・「網代編み」など10通りの編み方が駆使されており、高い技術で編まれた籠と共にアクセサリーなども出土したのは、巨勢川調整池建設の掘削工事中に貝塚上部が出土しましたことによっています。7300年前の喜界カルデラの爆発や縄文海進で海洋性粘土にパックされ、海退後も水に浸かった部分が多く地下深くに残されたと考えられます。遺跡は、覆土層などで保存されており、縄文時代の植物利用と土器製作の連携が研究されています。(国交省・日経スタイル2015年12月28日ほか)
  多分野の人々が参加している日本植生史学会には、籠編み作家との共同研究による縄文土器の編みご由来の研究や年輪年代法による輸入スプルース材の年代決定と産地推定、関西の林木育種—スギはヒノキ科等の革新的な研究に取り組んでいる研究者がいます。
 これからも、協同して様々な疑問に挑み、解決の糸口をみつける作業を続けて行きたいと考えています。
 分からないことだらけの毎日を雑事にまぎれて時間をついやしているにすぎないということに気づかされた旅でした。