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よしなに・いわての文化

2018-02-03 16:58:11 | 記録
            よしなに
 
  「アスクレピオスの杖」は、翼と蛇の巻き付いた杖の図像です。医療や医術の象徴として世界中で用いられているギリシャ神話の名医アスクレピオスが持っていたといわれている杖です。日野原重明氏が診療なさっていた聖路加国際病院には、医療の守護聖人「聖ルカ」の名と共に「アスクレピオスの杖」が中心にある病院のマークが入り口に掲げられています。初代アメリカ公使ハリスの居留地住宅が敷地内に移設されていますが、築地居留地は、福沢諭吉の菩提寺である善福寺境内にあったものが移設されたといわれていますが、居留地は、数カ所移設されて後に、現在は、聖路加国際病院の敷地内にあります。
 道を挟んで向い側には、「日本蘭学発祥の地」記念碑と「慶応義塾発祥の地」記念碑が並び立ち、この築地界隈一角は、日本の近代化の象徴となるものがあります。築地本願寺や幕末の藩邸下屋敷、泉岳寺などもあり、歴史や医療の発展の一端を知ることができます。
 また、最近、美食の聖地として脚光をあびている、スペインバスク地方のサンセバスチャンは、スペイン王妃が療養の地として選び快癒したことでも知られていますが、紀元前ローマ皇帝デミトリアヌスの親衛隊長だったセバステアヌスが善行を行い、病気平癒の聖人「聖セバステアヌス」とされた故事にちなんでいることでも知られています。
 「聖セバステアヌス」は、ペスト流行で激減した中世から近世にかけて欧州で、信奉され、ルネッサンスには、著名な画家が競って描いています。ルーブル美術館にも何点か収蔵されていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 一年一回の健康診断で、思いがけない結果を突きつけられて狼狽してしまい、相談を受ける事がよくありましたが、今回は、私でした。守護聖人の方々に祈りを捧げても、検査結果は冷酷です。最終診断は、二月初めになりそうですが、十年前のようにクリアできることを念じています。

 連綿と続いて来た人間の病との格闘は、予防医学の進展や先進技術の導入、先端医療などで、成果をあげ、医療従事者は、対処療法の中から最善の方法を駆使して健康寿命を延ばしてきました。
 「人はどこからきてどこへいくのか」「人類とは?」をご研究の研究者の方々は、発掘された骨を分析し、移動の経緯や定着した人の痕跡を探しています。その途上で、病気に罹患した痕跡や激しい戦闘での無惨な死を骨格の傷に見、未知の病原菌に遭遇したと考えられる不審な痕、そして、異なった遺伝子組成の混在に遭遇することもあるようです。
 様々な情報に接することができる今日ですが、自分自身についての具体的な対処法を選択することは、大変狭い範囲の中からと言わざるを得ません。治療は、よしなに、と、お願いするより他ありません。
 果たして、「アスクレピオスの杖」は…。

        
                 正岡子規生誕150年と岩手の文物に寄せて

  秋田県秋田市雄和女米木生まれの石井露月(本名・祐治)は、子規四天王(碧梧桐、虚子、鳴雪)の一人と言われています。懸命に句作している為山の姿を繪の中央下部に描いた下村為山の描いた作品「子規庵枕頭句会図」では、子規の右手に露月、肋骨、碧梧桐、四方太、虚子、鳴雪、紅緑などが居並んでいて、医師露月と子規との絆を感じます。
 石井露月(1873年(明治6)年5月17日) - 1928(昭和3)年9月18日)についての資料は、秋田市中通のあきた文学資料館の「明治150年 正岡子規と秋田」展(2017年9月29日 〜 2018年2月28日)で、様々な資料と共に紹介されています。また、島田五空の創設した「北斗吟社」を引き継いだ「俳星」の名付け親は、正岡子規(1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902〈明治35〉年 9月19日)です。「…秋田」展には、子規直筆の句稿や「新年句集」なども展示されています。「新年句集」は、1899(明治32)年1月8日東京根岸の子規庵で開かれた新年句会の句をまとめたものです。
 石井露月の資料は、故郷の雄和の「露月山盧」に保管されていて見学することが出来ます。露月は、雄和の人々に愛され、秋田県の俳句に大きな影響を与えています。秋田の人々は、俳句結社に集って句作を続けると共に、秋田県俳句懇話会という結社を越えた集合体を結成しています。露月は、そうした活動を促す力になっていると思われます。
 
 [子規ライン・子規古道「はてしらずの道」]
 正岡子規が西和賀町の湯本温泉を訪れたのは、1893(明治26)年夏の7月19日から8月20日までの約1ヶ月間、芭蕉の足跡を訪ねて東北地方を旅し、「はて知らずの記」を著しました。子規が、松尾芭蕉の足跡をたどる東北旅行の最終盤に、現在「子規古道」と言われている、秋田県六郷町(現・美郷町)から岩手県境の黒森峠を越え、ここ岩手県和賀郡西和賀町の湯本温泉にたどりついた時は、27歳でした。子規は
「山の温泉(ゆ)や裸の上の天の河」(湯本温泉句碑公園) 「秋風や人あらわなる山の宿」(JR北上線ほっとゆだ駅前)「蜩や夕日の里は見えながら」(下前地区県道12号線沿い)などの句を詠みました。-()内は句碑建立地- 
 子規は、湯本温泉に投宿した翌朝人力車に乗って和賀川に沿って下っていますが、「はてしらずの記」にその道中について、次のような一節が記されています。「ここより杉名畑に至る六・七里の間、山迫り河急に樹緑にして水青し、風光絶佳掏すべく誠に近国無比の勝地なり」と
。東京に戻った子規は、編集責任者を務める新聞「小日本」に西和賀町を舞台にした小説『一日物語』を発表しました。 
 西和賀町の欧風せんべい「一日物語」は、地元の湯田牛乳を使って、毎日1枚1枚手作りしているラング・ド・シャ風の薄型クッキーで、さくさくとした爽やかな味わいです。

子規のたどった道は、現在は湯田ダムの湖底に姿を消しましたが、錦秋湖に沿ってつくられた国道107号線の一部が、「子規ライン」と名づけられ秋田と岩手を繋いでいます。  
 岩手県西和賀町・湯田などと秋田県横手市・美郷町を結ぶ道は、古今を通じて重要な役割を担ってきました。白木峠、黒森峠、笹峠などを通る峠道は、人や文物の行き交う文明や文化が交流する遊歩道ともなり、人々の暮らしの生命線ともなっていくのですが、その経過を辿って行きましょう。

 [塩の道と牧畜]
  種々のミネラル成分が含まれている塩は,地球の生物が生きて行く上で必須のものです。生命を支える塩を私たちは、食物や調理した食品から摂取するなどの方法でとっています
 約40億年前、生命が誕生した地球は、塩水に満たされていましたので、多細胞生物も体内の細胞を「体の中の海」で囲み、陸上に上がった後も、その仕組みを引き継いでいるため、その体液という海を維持する塩が必要なのです。
 周りを海で囲まれていて、岩塩や地塩に恵まれない日本は、モンスーン気候のため塩田での製塩に適地ではありません。それでも沿岸地域の海水による製塩は盛んに行われていました。少なからず困難な作業を求められる製塩は、命を繋ぐだけではなく交易品としても大切な資源でした。
 
国際バレエコンクールが開催されることで知られるブルガリアの黒海沿岸の町ヴァルナで、1972年、約300基もの墓が偶然発見され、6kgにもおよぶ金製品が出土しました。そして、これらの金製品は6000年以上前の銅石器時代に加工された世界最古の金だったことが分かりました。この地には、岩塩鉱床があり、地の利を得て塩の交易で栄えたようです。勿論、金鉱床もあります。
 ギリシャ神話のアルゴ舟でコルキスに渡り「金の羊毛」を持ち帰ったイアソンの物語りが絵空事ではなかったのです。日本では、金粉をそば粉で集めると言われているように、欧州では,羊毛で集めると言われています。今も、最高の格式として「金の羊毛勲章」を授与された「金の羊毛騎士団」が存在することも、歴史の重みを物語ります。北方ルネサンスの拠点を築いたブルゴーニュのフィリップ善良公により創設されたこの騎士団の名称は、古代ギリシャ神話でイアソンが金の羊毛を見つけに世界を回る冒険譚に由来します。それと同時に、欧州で最先進の毛織物工業地帯を抱えた公国にとって「黄金をうみだす羊毛」という意味も込められていました。それにしても。ヴァルナに黄金をもたらしたものはなんだったのでしょうか。
 その答えは、2012年11月1日に発掘された、欧州最古とみられる先史時代の「町」の跡と、塩の生産設備でした。当時、塩は希少品だったので、発掘にあたった考古学者らはバルナにある古代墓地で大量の金の装飾品が見つかる理由がこれで解明できると期待しました。
「町」が発掘されたのは、バルナ郊外の町プロバディヤ近郊にあるプロバディヤ・サルニツァタ遺跡です。2005年から続けられてきた発掘調査で、2階建て住宅や墓地、儀式に使われたとみられる多数の穴、門の一部、要塞らしき建造物や防壁が発見されました。炭素年代測定で、全て紀元前4700~4200年の「金石併用時代」中期~後期のものであることが分かったのです。

  ブルガリア国立考古学研究所の考古学チームは、墓地に埋葬されていた人骨の姿勢や出土した埋葬品がいずれも、ブルガリアで過去に見つかった新石器時代のものとは大きく異なっていますし、「町」を取り囲む石造りの巨大な防壁も、これまで南東欧で見つかった先史時代の遺跡には見られなかったものでしたので、「大変興味深い発見だ」と説明しています。
 およそ人口350人ほどだったこの集落は防壁でしっかりと守られ、宗教の中心地だったと考えられます。そして、広く交易に使われていた最も重要な物資の塩を特産品としていたことが分かり、研究チームは、欧州で知られている中で最古の「先史時代の町」と呼ぶのにふさわしい全ての条件を備えていると結論付けました。
 ヴァルナには紀元前4300年ごろのネクロポリス(古代文明の集団墓地)があり、世界最古とされる黄金の装飾品が多数発掘されています。しかし、農業や牧畜が中心で資源も少ないこの地域に、なぜこれほどの富が集中したのかは謎でした。研究チームでは、塩の交易こそが富をもたらしたのではないかと考えています。

 いわての牧畜は、現在も盛んに行われていますが、放牧時の必携品の塩袋の紹介や最新の研究で塩生植物を好んで食べるラクダやトナカイ、飼料用の畜産固形塩などと共に収量増が報告されている農産品のあることが分かってきていますので、農地に塩を播いて収量増を目指したり、塩害の時に栽培作物を換える選択も可能になっています。
 いわての塩の歴史は、三陸沿岸の製塩が大きな特徴です。寒冷地の住民にとって塩は生活必需品であると共に、非効率な自煮製塩を続けたのは貴重な交易物資だったからでしょう。三陸沿岸は、リアス式海岸で豊かな樹木が海岸まで迫り、砂鉄鉱山が多く自煮製塩のための鉄釜が入手しやすかったことが幸いしました。農業生産物が乏しく、海産物が豊富な三陸沿岸では、塩やあわびなどの海産物を峠越えで運び米や穀物と交換することが必要でした。重い物資を運ぶには、牛が適していました。勿論、馬も運搬手段には必要でした。岩手には、今も、沢山の牧場があり、馬、牛,羊などを飼育していますし、観光牧場でのふれあいを楽しむこともできます。

 古代の製塩には、製塩土器が使われていますが、全国でも有数の砂鉄産地のいわてでは、800年ごろから製鉄が行われ、1700年ごろには鉄釜が盛んに使われるようになって製塩は飛躍的に発展しました。いわての製鉄については、日本初の橋野高炉の紹介も含めて、釜石市立鉄の歴史館で、その足跡を辿ることができます。

 製鉄が盛んになったころに、阿弖流為の活躍があったことも象徴的なできごとです。京都の清水寺の境内に阿弖流為と母礼の供養碑が建てられていますが、坂上田村麻呂と阿弖流為との経緯とガリア戦でのカエサルとウイルキンゲトリクスの経緯の類似が時代の違いがありながら、人のこころがかわらないことや当事者同士の心の通い合いがありながら、戦時の周囲の人々との感情の乖離が思わぬ結果をもたらすことを思わずにはいられません

  さて、北上山地を越えて、三陸沿岸から内陸への塩の道は, 釜石から遠野を経由して岩屋堂、北上、花巻方面へ、宮古からは盛岡方面へ、野田からは盛岡方面だけでなく、秋田県鹿角方面にまで運ばれて、穀物などの生活物資と交換されました。野田村の塩は、牛の背に付けて運ばれ「野田ベコ」と呼ばれるほどで、塩行商の総称になるほどでした。薬の行商が、「富山の薬屋さん」と言われていたように…。

 塩の交易だけでなく、江戸時代に九戸で製鉄が盛んになるとより重い鉄を運ぶことが必要になり、持久力のある牛が荷駄運搬用に求められ、牛飼牛方が必要になりました。牛は、野宿ができ、道端の草を食べるなど、馬に比べて利点が多く、冬を除いて運搬途中の餌に困ることはないことも幸いでした。

 早くからエコロジー対応の施策を進め「北緯40度 ミルクとワインとクリーンエネルギーの町」をキャチフレーズにしている葛巻町を訪れると、奥羽山地沿いの道際の峠の入り口に「塩の道」の表示板を見かけることが多いです。
 「塩の道」は、生活保全のために自然にできた道ですが、三陸沿岸の海水を集め煮詰めて塩を作るには、大変な労働と沢山の時間を掛かけています。その貴重な塩を運ぶための苦労も大変なものだったことが推察されます。塩を運ぶための道は,道沿いに住む人々にも少なからず恩恵をもたらしました。他の地域の文化や文明に触れる機会を得られたからです。古への文明の道「シルクロード」は、新奇な文物や服飾、調度、教典、文房四寶、絵画、陶磁器などの贅沢品が交易品としてもたらされました。「塩の道」は、生活必需品を交換するための庶民のための道ですが、生活文化の最新情報をもたらす重要な伝達手段という機能を果たしていました

  製塩は、専売制を経て自由化されましたので、古来のNaclだけでない、Ca,K,Mg,Fe,Znなどの専売制の時には、夾雑物として排除されていたものが、製塩地の個性を豊かにするものとして認められるようになり、そうした塩が特産品として販売できるようになりました。特に、洋野町の「ほや塩」は、ホヤをさばいた時にホヤからでてくる海水を煮詰めて精製した塩で、「種市ふるさと物産館」で販売しています。ほんのりホヤの香りがする逸品ですが、品薄とのことです。

 [黄金の道 秀衡街道]・[金沢柵・金沢城]
 横手市街北部には、金沢柵・金沢城、大鳥井山遺跡、陣館遺跡、沼柵・沼館城などの遺跡群があり、後三年合戦後の平泉の藤原氏の興隆に繋がります。黄金の道・秀衡街道の終着点平泉に至る道筋には、鷲之巣金山、水沢鉱山、綱取鉱山、大荒沢銅山などが連なっています。北上川沿いでは土金の採取も行われ平泉文化を支え、大陸からの文物を受け入れる原資にもなったようです。

 平安時代末の平泉藤原三代秀衡と黄金文化にちなんで名づけられた「秀衡街道」は、岩手県北上市から西和賀町を経て、秋田県横手市まで数十kmにわたって今に息づいていますが、奥羽山脈のほぼ中央部を、北上川支流の和賀川と雄物川支流の横手川が浸食した、その山あいの横断谷を縫うように結ばれています。

 [まとめ]
 多くの先達を輩出している岩手県は、地理的な要因を活かして必要と思われることに率先して取り組み、時代の先端をいく清新な風を巻き起こしてきました。合理的な決断と困難な状況を克服する強い意思を感じます。
 東北地方では、最北の古墳文化が花咲いていますが、JR北上線江釣子駅の江釣子古墳から出土のは蕨手刀は日本最多です。砂鉄製鉄が盛んだったことが分かります。2013(平成25)年北上市北鬼柳の八幡遺跡からは馬の絵が描かれた土器が出土していますから、馬牧も盛んだったと思われます。中央政府の馬への規制は厳しく,787(延暦6)年狄馬の交易禁止、815(弘仁6)年奥羽両国の馬の私的交易の禁止「日本後紀」「三大格」、861(貞観3)年軍用に耐える馬は牡牝を問わず陸奥国外に出すことを禁止「三大格」の禁令に加えて、901(延喜1)年-金、鷹、馬が北奥で交易されている。「管家後集」、のような重要情報が記録されています。
 古代の優れた文物や不屈の精神に引かれて、芭蕉や子規が訪れたと思われるいわての地は、限りない可能性を秘めています。