はじめに
ペルシャの王たちは、全中近東の広大な領土の統治システムとして王道と宿駅などの付属設備を整備したが、これはすでにメソポタミアのシュメールのウル王朝などが始めており、ペルシャ王朝はその伝統に立ちスーサからサルデイスまでという長大な距離に適用した。この王道と宿駅は、のちにローマ帝国の長距離道路網へと引き継がれた。(ブリアン、2000)
中国では、有史以前から統治権力による道路建設がされていたが、中国統一を果たした秦の始皇帝による全国的な道路網(馳道)の整備を受けた漢や大規模な道路建設を行った隋、さらに唐も駅伝制や交通制度を整備した。
中南米のインカ帝国が整備した道路網は、16世紀のスペインによる侵略の移動を容易にしたと考えられている。
我が国の古代道路は、改新の詔で宿駅伝馬制が布かれたことによって飛鳥時代から平安時代前期に整備されたと思われる。
道路や駅伝制の維持管理に必要な人員、場所、設備などの必須条件を考え、由利柵を探すための手がかりを見つけようと思う。駅家常備の馬を飼育する馬小屋の形態.家畜管理のための塩の供給体制やその他の条件についても踏み込んでみたい。
官道や駅伝制について
道路維持には、経常費と人員並びに管理システムと経営者が必要となる。駅伝制の維持管理には、膨大な経費と駅馬・伝馬への細やかな配慮に対応のできる人員や牧に適した土地の選択という難題が待ち受けている。古代の駅路は、最短距離を移動できる直線道により中央と地方をつなぎ情報伝達などを担う。30里(約16km)ごとに置かれた駅家や伝家は、律令制によって設置された五畿七道の道沿いに置かれていた。伝路は中央から地方への使者の送迎目的で敷かれたが、地方拠点間の情報伝達も担っていて、伝家には規定によって伝馬5頭が置かれ、駅使は通行を知らせる伝鈴を鳴らして通った。
また、伝馬の飼育を行う牧にはかなり広大な土地が必要で、山地の多い我が国で耕作適地以外の広い土地を求めるのは難しいと思われる。牧を営むための最適条件は、黒ぼく土壌の土地である。黒ぼく土には樹木が生育せず家畜化した動物が好むイネ科植物の生育に最適である。黒ぼく土を含む土地は、食糧生産の耕作地を侵害せず広大な牧を経営できる。馬の家畜化は、直良信夫が縄文貝塚から家犬.・家馬の骨格を発掘しているが分析による年代比定が難しかった時代だったこともあり、あまり評価されていないが、金沢大学のNews Release 「馬の歯・骨から古代日本の社会実態を探る 藤原京造営期における馬産体制を解明」によると人工飼育による馬が藤原京に移入され、それらの馬は、各個体毎に与えられた餌が違っており、最上級の馬は栗を与えられていたことが炭素同位体比によって判明すると共に、ストロンチウム同位体比と酸素同位体比によって初期律令体制前に馬の大部分が東日本や東日本内陸部から持ち込まれていたことが分かった。(覚張、2016)
また、『福井県史 通史編 原始・古代 第四章第三節一官道の役割 駅馬の制』によると天智朝ころには畿内・山陽道では駅馬の制は機能していたのかもしれないとしている。 (真柄、1996)
縄文人の二大貴石コハクとヒスイが日本海側のルートのみならず、太平洋側原産コハク(銚子)と日本海側原産ヒスイ(糸魚川)が相互に流通し、威信財として用いられていた(阿部、2010)ことが分かってきたことや縄文人が一定の法則に基づき安全な交易ルートを経験から特定した地名が現在も用いられている(森下、2018)ことを考えると牧や駅路・駅馬の活用がかなり早い時期に行われていたと考えることには妥当性があると思われる。
奈良時代には、西海道・南海道・山陽道・山陰道・東海道・北陸道・東山道の全国七道駅路の開削に伴い、国府、城柵、駅家が設置されたとされ、『続日本紀』などに記述されていながら、その実態が発掘調査などによって明らかになっている例は少ない。
駅家は、山陽道の布施と野摩のみであったが、平成30年宮城県岩沼市の原遺跡で玉前駅家跡と見られる発見があった。(岩沼市、2018)東山道は、玉前駅家から多賀城に至り、柴田駅家から秋田城に至ると考えられている。陸路より水路が経費節減と大量輸送に向いていたという論考もある。(中村、2020)
『続日本紀』に記されている秋田県内の蚶方駅家、由理駅家の立地は未だ不明である。
この論考では、秋田城跡で出土した漆紙文書の読み取りで鉄製鍔釜が貸し出されていた蚶方駅家と発掘調査を続行中の由理駅家並びに由理柵についての考察を試みる。
※様々な分野にわたる資料を提示し、考えるヒントが得られるようにしたい。
ペルシャの王たちは、全中近東の広大な領土の統治システムとして王道と宿駅などの付属設備を整備したが、これはすでにメソポタミアのシュメールのウル王朝などが始めており、ペルシャ王朝はその伝統に立ちスーサからサルデイスまでという長大な距離に適用した。この王道と宿駅は、のちにローマ帝国の長距離道路網へと引き継がれた。(ブリアン、2000)
中国では、有史以前から統治権力による道路建設がされていたが、中国統一を果たした秦の始皇帝による全国的な道路網(馳道)の整備を受けた漢や大規模な道路建設を行った隋、さらに唐も駅伝制や交通制度を整備した。
中南米のインカ帝国が整備した道路網は、16世紀のスペインによる侵略の移動を容易にしたと考えられている。
我が国の古代道路は、改新の詔で宿駅伝馬制が布かれたことによって飛鳥時代から平安時代前期に整備されたと思われる。
道路や駅伝制の維持管理に必要な人員、場所、設備などの必須条件を考え、由利柵を探すための手がかりを見つけようと思う。駅家常備の馬を飼育する馬小屋の形態.家畜管理のための塩の供給体制やその他の条件についても踏み込んでみたい。
官道や駅伝制について
道路維持には、経常費と人員並びに管理システムと経営者が必要となる。駅伝制の維持管理には、膨大な経費と駅馬・伝馬への細やかな配慮に対応のできる人員や牧に適した土地の選択という難題が待ち受けている。古代の駅路は、最短距離を移動できる直線道により中央と地方をつなぎ情報伝達などを担う。30里(約16km)ごとに置かれた駅家や伝家は、律令制によって設置された五畿七道の道沿いに置かれていた。伝路は中央から地方への使者の送迎目的で敷かれたが、地方拠点間の情報伝達も担っていて、伝家には規定によって伝馬5頭が置かれ、駅使は通行を知らせる伝鈴を鳴らして通った。
また、伝馬の飼育を行う牧にはかなり広大な土地が必要で、山地の多い我が国で耕作適地以外の広い土地を求めるのは難しいと思われる。牧を営むための最適条件は、黒ぼく土壌の土地である。黒ぼく土には樹木が生育せず家畜化した動物が好むイネ科植物の生育に最適である。黒ぼく土を含む土地は、食糧生産の耕作地を侵害せず広大な牧を経営できる。馬の家畜化は、直良信夫が縄文貝塚から家犬.・家馬の骨格を発掘しているが分析による年代比定が難しかった時代だったこともあり、あまり評価されていないが、金沢大学のNews Release 「馬の歯・骨から古代日本の社会実態を探る 藤原京造営期における馬産体制を解明」によると人工飼育による馬が藤原京に移入され、それらの馬は、各個体毎に与えられた餌が違っており、最上級の馬は栗を与えられていたことが炭素同位体比によって判明すると共に、ストロンチウム同位体比と酸素同位体比によって初期律令体制前に馬の大部分が東日本や東日本内陸部から持ち込まれていたことが分かった。(覚張、2016)
また、『福井県史 通史編 原始・古代 第四章第三節一官道の役割 駅馬の制』によると天智朝ころには畿内・山陽道では駅馬の制は機能していたのかもしれないとしている。 (真柄、1996)
縄文人の二大貴石コハクとヒスイが日本海側のルートのみならず、太平洋側原産コハク(銚子)と日本海側原産ヒスイ(糸魚川)が相互に流通し、威信財として用いられていた(阿部、2010)ことが分かってきたことや縄文人が一定の法則に基づき安全な交易ルートを経験から特定した地名が現在も用いられている(森下、2018)ことを考えると牧や駅路・駅馬の活用がかなり早い時期に行われていたと考えることには妥当性があると思われる。
奈良時代には、西海道・南海道・山陽道・山陰道・東海道・北陸道・東山道の全国七道駅路の開削に伴い、国府、城柵、駅家が設置されたとされ、『続日本紀』などに記述されていながら、その実態が発掘調査などによって明らかになっている例は少ない。
駅家は、山陽道の布施と野摩のみであったが、平成30年宮城県岩沼市の原遺跡で玉前駅家跡と見られる発見があった。(岩沼市、2018)東山道は、玉前駅家から多賀城に至り、柴田駅家から秋田城に至ると考えられている。陸路より水路が経費節減と大量輸送に向いていたという論考もある。(中村、2020)
『続日本紀』に記されている秋田県内の蚶方駅家、由理駅家の立地は未だ不明である。
この論考では、秋田城跡で出土した漆紙文書の読み取りで鉄製鍔釜が貸し出されていた蚶方駅家と発掘調査を続行中の由理駅家並びに由理柵についての考察を試みる。
※様々な分野にわたる資料を提示し、考えるヒントが得られるようにしたい。