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東電の誠意ある対応は??遮光と蔓植物

2014-08-11 21:33:00 | 記録
 2014年8月11日(月)昨日は、M5.1の地震とノロノロ台風11号の豪雨と竜巻のような突風

 東電説明に漁業者反発 地下水海洋放出 河北新報 2014年08月08日金曜日
 東京電力は7日、相馬市の相馬双葉漁協で開かれた同漁協理事会に出向き、福島第1原発の建屋周辺の井戸からくみ上げた地下水を浄化して海洋放出する計画を説明した。第1原発では建屋山側の地下水をくみ上げて放出する地下水バイパス計画が5月に始まったばかり。さらなる風評を招きかねず、理事からは「拙速だ」との声が上がった。
 理事会の質疑は非公開で行われた。東電から福島復興本社の新妻常正副代表らが出席した。
 出席者によると、高濃度のトリチウムが検出されている12番井戸の地下水を混ぜて放出する地下水バイパスの運用方法などに対し、理事側が異議を唱えた。
 佐藤弘行組合長は理事会後、「放出基準は地下水バイパスと同じにするのが大前提だが、必要性への説明が十分でなく、判断する段階でない」と語った。
 一般組合員からも「地下水バイパスの効果に関する説明がない。汚染前の地下水とは違い、簡単に認められない」と反発の声が上がった。
 東電は8日、いわき市のいわき市漁協に計画を説明するが、既に批判の声が出ている。同市小浜の漁業者(78)は「地下水バイパスで苦渋の決断をした。今後も次々と際限なく、こうした話が出てくるのではないか。これでは風評被害などなくならない」と話した。

[関連記事]汚染地下水の海洋排出検討 福島第1原発
▽http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201408/20140808_63020.html

 アルプス、遮水壁、汚染水タンク等々の東電打った放射能対策はすべて上手くいっていないし、改善策も同様である。
 農業者も漁業者も命を守り育てる仕事を毎日続けている人類にとって大切な人々である。彼らが苦しみ、その仕事を全うできないということが何を意味しているのか、原発関係者は考えたことがあるのだろうか。自分で自分の生きる術を消し去ろうとしていることも…


 今日の玄関先の朝顔・ニチニチソウなどの供宴は、これまでのどの時よりも美しい風景を醸し出している。
 6月12日の秋田県埋蔵文化財センター主催の「古代史発見バスツアー」の帰路に立ち寄った大内の道の駅「ぽぽろっこ」で購入したアムスメロンの苗に實がなっている。食べられるかどうかは分からないけど…毎日その成長を見守っている。

 パーゴラに絡ませたパッションフルーツは、花がつかなかったけれど、青々した葉が茂っている光景を楽しんでいる。

 今夏は、昨年までのグリーンカーテンの試みが、我が家の設置場所は日当りの点で問題があったことが分かったので、室内の遮光は、ヨシズやスダレに任せて、花が楽しめる日当りの良い場所につる性の草花や果物を植栽した。この試みは、成功したようだ。

<飛鳥京跡苑池>改修跡 古い島の護岸発見 橿考研 毎日新聞

2014-08-04 02:19:52 | 記録
 2014年8月3日(日)

「<飛鳥京跡苑池>改修跡 古い島の護岸発見 橿考研

<飛鳥京跡苑池>改修跡 古い島の護岸発見 橿考研  毎日新聞 8月3日(日)10時2分配信
飛鳥京跡苑池の推定図

 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)」(7世紀)の南池に配置された雲のような形の島の下に更に古い島があることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査で分かった。橿考研の東影悠・主任研究員が2日、公開の講座で発表した。苑池は天皇の宮殿に付属する国内初の本格庭園で、改修を重ねていたことを示す重要な資料としている。

【想像図】飛鳥京跡苑池を西側から見た当時の姿

 南池は南北55メートル、東西65メートル、面積2200平方メートルで五角形。島は最も近い北岸の沖約10メートルに石積み(高さ約1.3メートル)で築かれ、南北最大15メートル、東西32メートル、面積は約200平方メートルある。水深は30センチ程度だったとされる。

 東影研究員によると、島中心部の発掘地から、古い島の北端とみられる石積み護岸などが見つかった。古い島の外側には泥状の土がたまった石敷きを確認。石敷きが泥に埋まった後、その上に雲形の島が造成されたらしい。

 更に雲形の島を長方形に取り囲むように配置された柱列(太さ推定約30センチ)の跡も見つかった。東西約35メートル、南北約17メートルの範囲に2.4メートル間隔、ほぼ3列で並び、テラスのような施設があった可能性がある。その後、柱は抜かれ、北側の一部だけにテラス状とみられる木製施設が造られた。

 苑池は斉明天皇の時代(655~661年)に完成し、天武天皇の時代(672~686年)に改修したとされる。東影研究員は「7世紀半ばから末の約50年間で島は3時期に分けて改修された」とみる。

 仲隆裕・京都造形芸術大教授(日本庭園史)は「飛鳥時代に庭園が進化していたと分かったのは大きい。東アジアの古代庭園との比較や独自性、国内の庭園の変遷を考える上で重要だ」と評価している。【矢追健介】

【関連記事】
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飛鳥京跡苑池に「おもてなしの庭」 雲形の島、水深工夫し眺め楽しむ?
古代人は虫歯予防に雑草を食べていた
宇宙科学と考古学の融合 名古屋大研究グループが宇宙線で古墳内部を調査
(毎日新聞)」

 飛鳥池苑地の改修跡について、天武天皇の時代に改修工事がされていたことが分かり、日本の形を律令・墓制・神道などの制度の整備によって明確な国家体制を具体化していったことが明らかになってきた。

秋田城跡ボランテイアガイド 収蔵庫当番の日/気になるニュース

2014-08-04 01:05:23 | 記録
  2014年8月3日(日)秋田城跡ボランテイアガイド 収蔵庫当番の日

 ・今日は9:00の開館時に見学者が入館した。見学入館は10:00からなのだが、遠方からの旁々が早朝入館することが多い。今日から竿燈祭が始まったので、フェリーターミナルから直行なさる方々も多いのだ。
 今日の入館者は、川崎・長野・福岡・大阪の方々と秋田市の祖父と能代市のお孫さんたちや秋田市の在住者の大学時代の友人の方々と竿燈祭で帰秋した秋田市出身の方々などであった。

 日本国内で唯一の水洗厠跡の復元施設(動物食者の寄生虫出土)、天平の井戸跡出土の墨書磚(龍・人物)などと萬年通寶・鉄片・B型男子の胞衣の入った胞衣壺(2013年4月秋田市文化財指定)、鉄製甲小札と有機物質(木片に漆加工)甲小札などの貴重な出土品が展示されている収蔵庫には、この外に石帯、円面硯、刀子、下げ砥石、馬具、書類(戸籍、出挙帳、手紙など)、瓦、木簡などの国衙遺跡関係の出土品や和同開珎(銀銭1枚(国内での出土は数例なので拡大コピー)、銅銭5枚の内のi枚)農具、移設した鍛冶炉跡・有機物質(木片に漆加工)甲小札の出土の一部、天平の井戸枠(8枚の内の2枚)、まじない用具(中務省陰陽師用備品の刺し串・齊串・墨書土器など)、赤褐色土器、土師器、須恵器などなどのお宝が展示されている。

 ・今朝の気になるニュース

「毎日新聞ニュースメール http://mainichi.jp/ 2014年8月3日(日)朝

民間船員も戦地に フェリー2隻借り上げ

■注目ニュース■

 尖閣諸島を含む南西諸島の有事の際、自衛隊員を戦闘地域まで運ぶために民間フェリーの船員を予備自衛官とし、現地まで運航させる方向で防衛省が検討を始めた。すでに先月、2社から高速のフェリー2隻を借りる契約を結んだ。太平洋戦争では軍に徴用された民間船約2500隻が沈められ、6万人以上の船員が犠牲となった歴史があり、議論を呼びそうだ。

▽防衛省:有事の隊員輸送、民間船員も戦地に 予備自衛官として、検討 フェリー2隻借り上げ
http://goo.gl/NWUM7X
▽防衛省:民間船で有事輸送 戦地へ誰が行くのか 船長「何も聞いてない」
http://goo.gl/ruiQsJ
▽ことば:予備自衛官
http://goo.gl/4px6b1」

 こんな風に、段階的に軍事優先の段取りができていくのかと気がかりだ。

古文書解読口座終了

2014-08-03 00:12:07 | 日記
 2014年8月2日(土)
 6/2(土)~8/2(土)全6回の入門講座が終わった。あっという間!!
 段階的に進められたので、何とかついていくことができた。9月からの古文書解読講座は、より高度になりそうなので、夏の間に参考文献を読む事ができるようにしたいと考えているが…

 今回の講座での収穫は、室町期の半済についての知見が得られたことである。
 半済によって、皇族・寺社・貴族が経済的な基盤を失うと共に武断的な闘争からも交代することになったことが分かったことである。

 昨年、河川の氾濫防止のため東京都が一時間の降雨量70㍉に対応出来る地下施設を建設したでも分かるように
中野区の善福寺池を水源とする善福寺川の名前の由来となっている善福寺が善福寺池から山門だった虎ノ門までが寺域だったことを考えると現在の善福寺がどんなに小さな寺域になっているかが分かる。

 所領が縮小していく様子は、心穏やかざるものがあったに違いないと思われる。

 

糟谷評遺構見つかる 官衙跡か?

2014-08-02 22:55:38 | 記録
 2014年7月28日(月)

 後漢の光武帝から拝受したと言われている金印(漢委奴国王印)が江戸期に発見された志賀島の出土推定地には金印公園があり、金印は、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されているし、レプリカは、長崎市の孔子廟に展示されているが、今回発掘された国衙跡と推定されている糟谷評跡は、両施設を結ぶ地点にある。
 また、福岡県粕屋郡糟谷町は、日本鉱業史研究会にとっても重要な地域である。


「700年前後の政庁「糟屋評」跡か 福岡・粕屋で発掘 朝日新聞 馬郡昭彦2014年7月16日05時35分
http://www.asahi.com/articles/ASG7H4WTRG7HTIPE01Z.html

  福岡県粕屋町で、紀元700年前後の地方政庁の跡とみられる遺跡が見つかった。粕屋町教委によると、「糟屋評(かすやのこおり)」と呼ばれる政庁跡とみられ、律令国家形成期の地方支配を考えるうえで貴重な遺跡という。町教委は19日午前10時から現地説明会を開く。

 遺跡は、同町阿恵の九大農学部付属農場の移転確認調査で発掘。町教委が昨年7月から調査を始めていた。東西300メートル、南北100メートルの範囲で、政庁跡と倉庫跡がセットで見つかり、「糟屋官衙(かんが)遺跡群阿恵遺跡」と名付けられた。

 政庁跡は1辺55メートルほどのコの字形に並び、5棟の建物を確認。倉庫は高床式で6棟見つかり、税として集めた米などを収納する「正倉」とみられるという。

 糟屋評については、698年に鋳造されて京都・妙心寺に残る鐘(国宝)に「糟屋評造舂米連広國(つきしねのむらじひろくに)」の銘があることで知られている。「評造(こおりのみやつこ)」は、当時の地方政庁の長官を意味したとされる。(馬郡昭彦)」

 「「糟屋評」官衙跡か 九大農場内で遺構見つかる 読売新聞 2014年07月15日
 http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140715-OYS1T50019.html

 粕屋町教育委員会は14日、同町阿恵の九州大農学部付属農場内で、飛鳥~奈良時代(700年前後)の役所跡とみられる遺跡を発見したと発表した。郡の前身「評こおり」の役所「官衙かんが」跡の可能性があるという。町教委によると、律令制度導入前の地方行政組織である評の官衙跡は久米官衙遺跡(松山市)など全国で数か所程度で、「律令国家形成過渡期の地方支配制度のあり方を知る上で重要な発見」としている。

 農場移転に伴い、町教委は昨年度から調査を実施。昨年8月に倉庫跡を、今年3月に政庁跡を発見した。政庁跡には、最長約42メートル、幅約4メートルの長舎型建物4棟が「コ」の字型に配置され、その内側に建物1棟があった。倉庫跡には、1辺4~8・5メートルほどの方形の建物6棟が並んでいた。

 政庁跡は、柱穴から出土した土器の様式などから、7世紀後半~8世紀前半と推定。建物の配列などから、粕屋郡の前身である「糟屋評かすやのこおり」の官衙の可能性があると判断した。倉庫群は税の穀物を収納した「正倉しょうそう」とみられる。正殿や正門は見つかっておらず、町教委は引き続き調査を行う。

 糟屋評を巡っては、長官にあたる「評造こおりのみやつこ」である「舂米連広国つきしねのむらじひろくに」の名が、妙心寺(京都市)の国宝の梵鐘(698年鋳造)に鋳造者として記されている。

 九州大の西谷正・名誉教授(東アジア考古学)は「舂米連広国が政務を執った可能性が考えられる。保存状態がよく、当時の地方統治拠点の実態解明に向けた手がかりとなる」と話している。

 19日午前10時から現地説明会が開かれる。問い合わせは町社会教育課(092・939・2984)へ。

2014年07月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun」


 2014年7月28日(月)役所と倉庫の遺構セットで見つかる 飛鳥時代、福岡県粕屋町秋田魁新聞11面 
   上記以外の情報は、
 「福岡県粕屋町教育委員会は、町内の糟谷官衙群阿恵遺跡跡で、遺跡7世紀後半の飛鳥時代の役所「糟谷評」とみられる建物跡が見つかったと発表した。税として集めた穀物を保存する倉庫群(穀物の重みを考慮し、床を多数の柱で支える構造になっている)とセットで出土しており、全国でも数例しかない発見だという。
 
 今回出土した役所も広国がいた時代の可能性が高い。評の役所跡の出土は、松山市の久米官衙遺跡群など数例に限られる。」

 ボランテイアガイドを務めている国指定史跡の秋田城跡は、733年(天平5)「出羽柵を高清水の岡に移す」と続日本紀に記されている官衙跡である。渤海使が初めて来訪した地であり、37回の来訪のうち4回が秋田である。接待施設は時代と共に南に移り、太宰府の鴻臚館が大勢の使節団の受け入れ施設になった。秋田城跡にある日本で唯一の水洗厠跡は、動物に寄生する寄生虫の卵が出土しているので渤海使が使用したと推察されているが、鴻臚館に水洗厠跡はなく、一時に千人規模の使節団の排泄する大量の糞尿の始末は、オマル式の便器に取ったものを四㍍の深い穴に投機していたのだと言う。
 糟谷評から、木簡や穀物の種など役者機能や生活の臭いがする出土品が発見されることを祈念している。