八朔祭の由来
8月の終わりか ら9月初旬にかけて、8月の名が残るお祭りが全国各地で行われていることをご存じだろうか。これは明治以降、新暦へと切り替わったにもかかわらず、旧暦で 催事が続いてきたことに理由がある。祭りの名前は「八朔(はっさく)祭り」。「朔」とは新月を意味する漢字で、旧暦(太陰暦)においては、新月の日は月の 初日となり、「朔日」と書いて“ついたち”と読む。つまり、「八朔」とは8月1日を指す言葉なのである。この“8月1日祭り”が、なぜ現在ではほとんどの地域で9月に行われているかといえば、旧暦の8月1日が、新暦(太陽暦)のおおよそ9月初旬あたりとなるからだ。旧暦の八朔は、2019年では8月30日、2020年は9月17日、2021年は9月7日となる。
五穀豊穣や無病息災を祈る八朔祭は、各地でおこなわれているが、その謂れなどを考察してみよう。八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。 新暦では8月25日頃から9月23日頃までを移動し、遅ければ秋分当日となる。
この頃に早稲種の稲の穂が稔るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあり、田の実の節句ともいった。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった 。
『鎌倉年中行事』には、室町幕府の公式行事であり、関東の出先である鎌倉府では8月1日に八朔の儀式が行われ、諸大名や寺社から刀剣や唐物、馬などが鎌倉公方に献上され、鎌倉公方からも刀剣や唐物、馬などが下賜されていた。
徳川家康が1590(天保18)年8月1日初めて江戸城に入城したことを慶事とし、江戸幕府はこの日を正月につぐ祝日とした。「八朔参賀」と呼ばれ江戸城には祝いの品を届ける大名が列をなしたという。八朔の祝いは、明治改暦以降、新暦8月1日や月遅れの9月1日に行われるようになっている。
八朔参賀」に因んで京都の祇園では、芸妓や舞妓たちがお茶屋やお師匠さんの家へ挨拶回りをするが、「旧暦の八朔の頃は、早い稲が実る季節であることから「田の実の節句」とも呼ばれていた。田の実を頼みにかけて、上司や知り合いなどに頼み事をする日でもあったのである。この意味合いで代表的なものが、京都祇園の八朔回りである。
京都府京都市西京区の醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社の八朔祭は、京都の最後の夏祭りで、風雨を避け、順調に五穀の稔りを得られることや家内安全を祈ることを目的として明治18年から続く他の八朔祭と比べると130年と新しい祭りであると言うこともできる。しかし、その二つの意味合いがあり、室町時代の一条兼良の「公事根源」、江戸時代の黒川道裕の「日次記事」などでは、旧暦8月頃に早稲の穂が豊かに実り、農民は初穂を貴人、恩人に送る風習が古くからあった。そして、武門の崇敬を受けて松尾大社は神馬を献上されている。江戸時代には徳川家康が1590(天正18)年8月1日に江戸城に入城した記念すべき日として、正月に次ぐ祝日とした。また、朝廷でも「後水尾院當事年中行事」に「八朔」が恒例行事として紹介されており、貴践の別なく盛大に行われて、秋の大事な行事と位置づけられていたようだ。
松尾大社では、「六斎念仏踊り」と「八朔相撲」が併せて行われている。「六斎念仏踊り」は、平安時代に空也上人が松尾大社の神前で初めて奏したと言われており、無形文化財に指定されている。「八朔相撲」は、鎌倉時代から奉納されており、現存する記録としては江戸初期の神主秦相宥の編纂した「松尾年中行事次第記巻中」に「八朔相撲」に関する記述がある。
醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社は、祭神「大山咋神」を飛鳥時代に祀ったとされているが、その起源はさらに溯り太古から棲んでいた人々が山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座に祀り守護神として崇敬したのが始まりと伝えられている。五世紀頃、秦の始皇帝の子孫あるいは新羅の豪族と称する人々は、秦氏が朝廷に招かれて来住し松尾の神を総氏神として、様々な分野の開拓や産業振興などを行った。保津峡の開鑿、大堰や用水路を通し農地開発をし、織物や酒造り、神殿建設などの土木工事を行うなど、人間活動のあらゆる活動に通じる成果をあげた。
島根県益田市の高津柿本神社の八朔祭は、柿本人麻呂の誕生日、陰暦の8月1日に催され豊作祈願のお祭りで流鏑馬神事も行われる。この日は、二百十日の厄日にあたり、風除けと豊作を祝っての祭りで、石見地方きっての賑やかな祭りとして昔から続いている。神前では、石見神楽を奉納(午前10時〜午後9時)する。
人丸から読み取れる、「人生まる」で安産の神、疫病防除の神、「火止まる」と火難防除の神、歌聖として学問の神、五穀豊穣の神として農業さらに商売繁盛を祈願する参拝者が多い。
室町時代には、この日が武家の節句にあたり武士道の高揚を目的として流鏑馬の行事が行われた。神社近くの高津川河川敷で古式豊かな流鏑馬神事が 行われる。流鏑馬は、1661(寛文元)年8月1日に亀井茲政が奉納したのが始まりで、鏑矢が飛んで行く時発する高い音が魔除けの破魔矢効果があるとされている。(要約:公益社団法人 島根観光協会2019年/しまね観光ナビ/観光スポット・柿本神社八朔祭)
八朔祭は、五穀豊穣と子孫繁栄を祈る神事と共に流鏑馬や神馬を奉納することも行なわれており、馬に関する神亊は武家勢力の進展によって盛んになったと思われる。
古代の馬と牧に関しては,律令制度のもとで国府や国分寺と共に五畿七道が整備され厩牧令により30里(約16km)毎に駅家が設置され牧で伝馬が乗り継ぎの為に飼育管理されていた。現在、発掘によって判明している駅家は山陽道の布勢と野摩のみであったが2007(平成29)年11月に東山道の玉前駅、玉前剗の重要な手掛かりが得られている。宮城県岩沼市の原遺跡の県営圃場整備事業に伴う発掘調査で掘立柱建物跡からは陶製の円面硯や長頸瓶(フラスコ形で、古代城柵の地鎮の埋納品とされた。)、砥石、刀子、墨書土器、内黒土器と鞴羽口や釣り針などが出土しており役所の機能を果たしていたことが推察される。
牧に適しているのは、黒ボク土を含む土壌で、黒ボク土は土中に腐食が集積することによって黒く見え、その母体は、テフラ物質つまり火山灰で一般の植物には有害なアルミニュウムイオンが多く含まれるがイネ科の植物はそれらを吸収する。そして、イネ科の植物を好むのが馬なのだ。けれども、火山灰土があることがイネ科の植物生育の条件で馬を飼いやすい条件だが、馬を飼っていたことを示している訳ではない。東北北部に広がる黒ぼく土地帯は、次のような条件、①温潤で冷温〜温暖な気候②火入れ・焼き畑・焼き狩などの人間の関与③水が下方に浸透しやすい台地や丘陵があることが馬を飼うために十分な条件を満たしていることである。特に火入れや草焼き、野焼きをしてイネ科植物の生育を促した草原は、平坦地が広がり、十和田火山灰などの集積がなされている東北北部の山地の東側は冬の積雪も少なく馬を飼うには適していたと思われる。黒ボク土地域と古代の官牧の分布が類似していることが地質図と「延喜式」に記された東北地方の牧の分布を重ねてみると分かる。
現在馬飼は、有資格者の家畜商で、牛、馬、豚、緬羊、山羊などの家畜を家畜市場で売買、交換、斡旋する者のことを言う馬喰・博労・伯楽・白楽は、大化以前には馬の調教飼育や飼料の貢納などに従事した部曲で、大化以後は左右馬寮に雑戸馬飼部として属した。その後。徳川藩政期の馬飼は、幕府の馬に関する諸事を司った職名となった。また、『日本姓氏語源辞典』の名字の由来と分布をみると馬の飼育に従事した馬飼部からと考えられるが、島根県西部(旧石見国)では馬飼(バカイ)で、愛知県あま市付近(旧海部郡)の馬飼由来と伝えられている。愛知県稲沢市(旧中島郡)祖父江町馬飼(マカイ)は、江戸時代から記録のある地名である。福岡県北九州市南区葉山町では、福井県坂井市丸岡町霞の丸岡城の江戸時代の城主有馬氏の後裔と伝えられている。
馬飼さんが多い地域は、愛知県知立市などにおよそ10人、三重県伊賀市などにおよそ10人、兵庫県神戸市兵庫区などにおよそ10人、岡山県倉敷市などにおよそ10人、岡山県高梁市などにおよそ10人がT O P 5である。
馬飼は、駅馬を牧で世話し、駅馬としての役割を果たすための準備を常に怠らなかった。連絡の用のある時には即駅馬として出発出来る体制を整えておくことが求められた。馬の飼育には人の約十倍の塩が必要で、古代遺跡から出土する馬骨の近くからは製塩土器が出土している。牧は塩の補給や伝馬の交換をするための重要な拠点であった。補給できるまた、馬には序列があった。『続日本紀』721(養老5)年3月9日の条に馬の所有数に関する記述があり「五位の者は四匹、六位以下庶民までは、三匹」とあり、一般的な武士は三匹が限度だ。が、源義経の乗り換え馬が四匹なのは義経が五位のためである。
八朔祭は、様々な曲折を経て各地の祭礼として残り、祭礼の形式も様々だが、五穀豊穣を祈り地霊を鎮めて子孫繁栄を願う人々の願いを天に届ける素朴な形を伝え続けている。
8月の終わりか ら9月初旬にかけて、8月の名が残るお祭りが全国各地で行われていることをご存じだろうか。これは明治以降、新暦へと切り替わったにもかかわらず、旧暦で 催事が続いてきたことに理由がある。祭りの名前は「八朔(はっさく)祭り」。「朔」とは新月を意味する漢字で、旧暦(太陰暦)においては、新月の日は月の 初日となり、「朔日」と書いて“ついたち”と読む。つまり、「八朔」とは8月1日を指す言葉なのである。この“8月1日祭り”が、なぜ現在ではほとんどの地域で9月に行われているかといえば、旧暦の8月1日が、新暦(太陽暦)のおおよそ9月初旬あたりとなるからだ。旧暦の八朔は、2019年では8月30日、2020年は9月17日、2021年は9月7日となる。
五穀豊穣や無病息災を祈る八朔祭は、各地でおこなわれているが、その謂れなどを考察してみよう。八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。 新暦では8月25日頃から9月23日頃までを移動し、遅ければ秋分当日となる。
この頃に早稲種の稲の穂が稔るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあり、田の実の節句ともいった。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった 。
『鎌倉年中行事』には、室町幕府の公式行事であり、関東の出先である鎌倉府では8月1日に八朔の儀式が行われ、諸大名や寺社から刀剣や唐物、馬などが鎌倉公方に献上され、鎌倉公方からも刀剣や唐物、馬などが下賜されていた。
徳川家康が1590(天保18)年8月1日初めて江戸城に入城したことを慶事とし、江戸幕府はこの日を正月につぐ祝日とした。「八朔参賀」と呼ばれ江戸城には祝いの品を届ける大名が列をなしたという。八朔の祝いは、明治改暦以降、新暦8月1日や月遅れの9月1日に行われるようになっている。
八朔参賀」に因んで京都の祇園では、芸妓や舞妓たちがお茶屋やお師匠さんの家へ挨拶回りをするが、「旧暦の八朔の頃は、早い稲が実る季節であることから「田の実の節句」とも呼ばれていた。田の実を頼みにかけて、上司や知り合いなどに頼み事をする日でもあったのである。この意味合いで代表的なものが、京都祇園の八朔回りである。
京都府京都市西京区の醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社の八朔祭は、京都の最後の夏祭りで、風雨を避け、順調に五穀の稔りを得られることや家内安全を祈ることを目的として明治18年から続く他の八朔祭と比べると130年と新しい祭りであると言うこともできる。しかし、その二つの意味合いがあり、室町時代の一条兼良の「公事根源」、江戸時代の黒川道裕の「日次記事」などでは、旧暦8月頃に早稲の穂が豊かに実り、農民は初穂を貴人、恩人に送る風習が古くからあった。そして、武門の崇敬を受けて松尾大社は神馬を献上されている。江戸時代には徳川家康が1590(天正18)年8月1日に江戸城に入城した記念すべき日として、正月に次ぐ祝日とした。また、朝廷でも「後水尾院當事年中行事」に「八朔」が恒例行事として紹介されており、貴践の別なく盛大に行われて、秋の大事な行事と位置づけられていたようだ。
松尾大社では、「六斎念仏踊り」と「八朔相撲」が併せて行われている。「六斎念仏踊り」は、平安時代に空也上人が松尾大社の神前で初めて奏したと言われており、無形文化財に指定されている。「八朔相撲」は、鎌倉時代から奉納されており、現存する記録としては江戸初期の神主秦相宥の編纂した「松尾年中行事次第記巻中」に「八朔相撲」に関する記述がある。
醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社は、祭神「大山咋神」を飛鳥時代に祀ったとされているが、その起源はさらに溯り太古から棲んでいた人々が山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座に祀り守護神として崇敬したのが始まりと伝えられている。五世紀頃、秦の始皇帝の子孫あるいは新羅の豪族と称する人々は、秦氏が朝廷に招かれて来住し松尾の神を総氏神として、様々な分野の開拓や産業振興などを行った。保津峡の開鑿、大堰や用水路を通し農地開発をし、織物や酒造り、神殿建設などの土木工事を行うなど、人間活動のあらゆる活動に通じる成果をあげた。
島根県益田市の高津柿本神社の八朔祭は、柿本人麻呂の誕生日、陰暦の8月1日に催され豊作祈願のお祭りで流鏑馬神事も行われる。この日は、二百十日の厄日にあたり、風除けと豊作を祝っての祭りで、石見地方きっての賑やかな祭りとして昔から続いている。神前では、石見神楽を奉納(午前10時〜午後9時)する。
人丸から読み取れる、「人生まる」で安産の神、疫病防除の神、「火止まる」と火難防除の神、歌聖として学問の神、五穀豊穣の神として農業さらに商売繁盛を祈願する参拝者が多い。
室町時代には、この日が武家の節句にあたり武士道の高揚を目的として流鏑馬の行事が行われた。神社近くの高津川河川敷で古式豊かな流鏑馬神事が 行われる。流鏑馬は、1661(寛文元)年8月1日に亀井茲政が奉納したのが始まりで、鏑矢が飛んで行く時発する高い音が魔除けの破魔矢効果があるとされている。(要約:公益社団法人 島根観光協会2019年/しまね観光ナビ/観光スポット・柿本神社八朔祭)
八朔祭は、五穀豊穣と子孫繁栄を祈る神事と共に流鏑馬や神馬を奉納することも行なわれており、馬に関する神亊は武家勢力の進展によって盛んになったと思われる。
古代の馬と牧に関しては,律令制度のもとで国府や国分寺と共に五畿七道が整備され厩牧令により30里(約16km)毎に駅家が設置され牧で伝馬が乗り継ぎの為に飼育管理されていた。現在、発掘によって判明している駅家は山陽道の布勢と野摩のみであったが2007(平成29)年11月に東山道の玉前駅、玉前剗の重要な手掛かりが得られている。宮城県岩沼市の原遺跡の県営圃場整備事業に伴う発掘調査で掘立柱建物跡からは陶製の円面硯や長頸瓶(フラスコ形で、古代城柵の地鎮の埋納品とされた。)、砥石、刀子、墨書土器、内黒土器と鞴羽口や釣り針などが出土しており役所の機能を果たしていたことが推察される。
牧に適しているのは、黒ボク土を含む土壌で、黒ボク土は土中に腐食が集積することによって黒く見え、その母体は、テフラ物質つまり火山灰で一般の植物には有害なアルミニュウムイオンが多く含まれるがイネ科の植物はそれらを吸収する。そして、イネ科の植物を好むのが馬なのだ。けれども、火山灰土があることがイネ科の植物生育の条件で馬を飼いやすい条件だが、馬を飼っていたことを示している訳ではない。東北北部に広がる黒ぼく土地帯は、次のような条件、①温潤で冷温〜温暖な気候②火入れ・焼き畑・焼き狩などの人間の関与③水が下方に浸透しやすい台地や丘陵があることが馬を飼うために十分な条件を満たしていることである。特に火入れや草焼き、野焼きをしてイネ科植物の生育を促した草原は、平坦地が広がり、十和田火山灰などの集積がなされている東北北部の山地の東側は冬の積雪も少なく馬を飼うには適していたと思われる。黒ボク土地域と古代の官牧の分布が類似していることが地質図と「延喜式」に記された東北地方の牧の分布を重ねてみると分かる。
現在馬飼は、有資格者の家畜商で、牛、馬、豚、緬羊、山羊などの家畜を家畜市場で売買、交換、斡旋する者のことを言う馬喰・博労・伯楽・白楽は、大化以前には馬の調教飼育や飼料の貢納などに従事した部曲で、大化以後は左右馬寮に雑戸馬飼部として属した。その後。徳川藩政期の馬飼は、幕府の馬に関する諸事を司った職名となった。また、『日本姓氏語源辞典』の名字の由来と分布をみると馬の飼育に従事した馬飼部からと考えられるが、島根県西部(旧石見国)では馬飼(バカイ)で、愛知県あま市付近(旧海部郡)の馬飼由来と伝えられている。愛知県稲沢市(旧中島郡)祖父江町馬飼(マカイ)は、江戸時代から記録のある地名である。福岡県北九州市南区葉山町では、福井県坂井市丸岡町霞の丸岡城の江戸時代の城主有馬氏の後裔と伝えられている。
馬飼さんが多い地域は、愛知県知立市などにおよそ10人、三重県伊賀市などにおよそ10人、兵庫県神戸市兵庫区などにおよそ10人、岡山県倉敷市などにおよそ10人、岡山県高梁市などにおよそ10人がT O P 5である。
馬飼は、駅馬を牧で世話し、駅馬としての役割を果たすための準備を常に怠らなかった。連絡の用のある時には即駅馬として出発出来る体制を整えておくことが求められた。馬の飼育には人の約十倍の塩が必要で、古代遺跡から出土する馬骨の近くからは製塩土器が出土している。牧は塩の補給や伝馬の交換をするための重要な拠点であった。補給できるまた、馬には序列があった。『続日本紀』721(養老5)年3月9日の条に馬の所有数に関する記述があり「五位の者は四匹、六位以下庶民までは、三匹」とあり、一般的な武士は三匹が限度だ。が、源義経の乗り換え馬が四匹なのは義経が五位のためである。
八朔祭は、様々な曲折を経て各地の祭礼として残り、祭礼の形式も様々だが、五穀豊穣を祈り地霊を鎮めて子孫繁栄を願う人々の願いを天に届ける素朴な形を伝え続けている。