岡山新報デジタル

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岡山新報デジタル【神道】

2022-10-21 12:25:33 | 日記
【神道諸派】

🔷雲伝神道
慈雲が主張した雲伝神道は、日本の神道は密教に基づく曼荼羅観に一致するとして、専ら密教の教義によって解釈された神道の一派である。
葛城神道ともいう。その思想は、当時の儒者や神道家による仏教批判に対抗して、旧来の両部神道の再構築を図ったもので、神道の本義を君臣の大義に置き、夫婦・朋友の道を立てる儒学を批判し、日本は聖人の出現を必要としない神国であるとするなど、従来の神仏習合とは異なって復古神道に近い立場を取っている。

・慈雲(じうん、1718年8月24日(享保3年7月28日) - 1805年1月22日(文化元年12月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。
能書家としても知られる。俗姓は上月氏。
法諱は飲光(おんこう)。号は百不知童子、葛城山人、雙龍叟など。慈雲尊者と尊称される。

・慈雲の生涯
大坂中之島(現在の大阪市北区)の高松藩蔵屋敷で上月安範の子として生まれ、父の遺言により13歳の時に摂津の法楽寺(大阪市東住吉区)で出家、同寺の住職・忍綱貞紀に密教と梵語(サンスクリット)を学ぶ。
16歳の時に、忍綱の命で京都に行き、伊藤東涯に古学派の儒学を学ぶ。翌年に奈良に遊学し、顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、河内の野中寺(羽曳野市)で秀厳の教えを受けて、戒律の研究を始め、1738年(元文3年)、具足戒を受けた。翌年には忍網から灌頂を受け、法楽寺の住職となったが、2年後に住職を同門に譲った。その後、信濃に曹洞宗の僧侶の大梅を訪ねて禅を学び印可を受ける。

1744年(延享元年)、河内の長栄寺(東大阪市)を再興して住職となり、初めて戒律の講義を行なったのを皮切りに、高野山や近畿の各地で修行と講演を続ける。1750年(寛延3年)、「根本僧制」を定めて正法律の復興を標榜、有馬の桂林寺で『方服図儀』を著し、袈裟の裁制を正す。

1758年(宝暦8年)、『南海寄帰伝解䌫鈔』7巻を著した後、生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。
その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。
この『梵学津梁』の内容は、明治時代に来日したフランス人のサンスクリット研究家シルヴァン・レヴィから高く評価されたほどであった。

1775年(安永4年)、『十善法語』12巻を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。

大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。保光は慈雲に深く帰依し、慈雲の死後に保光が剃髪した際には、毛髪を高貴寺にある慈雲の墓のそばに埋めたほどであったと伝えられる。

晩年に、独自の神道説を唱え、磐船神社を根本道場とした。慈雲の提唱した神道は後に雲伝神道(うんでんしんとう)または葛城神道(かつらぎしんとう)と呼ばれた。

1804年、京都の阿弥陀寺でその生涯を終えた。遺体は高貴寺に運ばれ埋葬された。


岡山新報デジタル【今日は何の日】

2022-10-21 07:28:02 | 日記
⭕禅寺丸柿の日(10月21日 記念日)
神奈川県川崎市麻生区の麻生(あさお)観光協会が制定。

日付は2012年(平成24年)のこの日に、麻生区は区制30周年を迎えたことを記念した「禅寺丸柿サミット」が行われ、麻生区の「区の木」として「禅寺丸柿(ぜんじまるがき)」が制定されたことから。

約800年前の鎌倉時代前期に麻生区の王禅寺で発見され、日本最古の甘柿とされる「禅寺丸柿」を多くの人に知ってもらうことが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

禅寺丸柿について
明治時代、神奈川県には禅寺丸柿に由来して「柿が生まれた村」ということで、柿生村(かきおむら)があった。1939年(昭和14年)に川崎市に編入され柿生村はなくなったが、柿生駅は残っている。

禅寺丸柿は、1909年(明治42年)に明治天皇に献上された柿でもある。また、2007年(平成19年)には文化財保護法に基づき登録記念物として登録され、保護措置がとられることとなった。



禅寺丸柿のキャラクターは「かきまるくん」で、麻生観光協会を中心に、柿生禅寺丸柿保存会や川崎市が連携し、着ぐるみを作製した。ゆるキャラ「かきまるくん」は、幅広く禅寺丸柿の存在をPRし、地域の活性化を図るべく、各地のイベントなどに参加している。