日本の教育をその起源にさかのぼって語ることは今回の主な課題ではないため端折るが、
近代公教育の黎明期において「education」は「発育」と訳すべきだとする福沢諭吉に対し、
初代文部大臣になる森有礼は「教育」と名付けたというようなエピソードもあるように、
公教育は教え諭すもの・上から与えるもの的なニュアンスだったことを念頭に置いておく必要はある。
日本もドイツ同様に第二次世界大戦で敗戦国となり、その戦争政策を反省して戦後の民主教育づくりに奔走した時期があった。
それこそ、文部省はその先頭に立って民主主義に基づく制度化を行った。
そんな中で1947年には教育基本法も制定され戦後教育の基盤が確立されていったのである。
(この「47教基法」は2006年に安倍内閣によって改訂されてしまった。)
文部省による指導要領も今では信じられないような民主的な理念に満ち溢れていた。
とりわけ社会科の果たす役割は大きく、文部省が示す教育の目的そのものを具現化するものであった。
しかし、日本の「逆コース」化への転換は早かった。
背景にはアメリカがGHQを使って日本を「反共」の砦として操ろうという企みがあった。
非現業公務員のストライキを禁止する等の措置が相次ぎ、
労働組合を弾圧し「行き過ぎた」民主主義的思想や行動をも規制されるようになった。
これは明らかにアメリカの思惑を超えた自由思想や運動を取締る方向へ進み始めたと言える。
アメリカ政府を忖度した日本政府の素早い方向転換であったのである。
ここにおいて、一時は日本の民主化のために大きな役割を与えられた学校教育も徐々に変質していった。
1954年には教育二法と言われる「教育公務員特例法の一部を改正する法律」と
「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」が成立し、
教育労働者の行動が大きく制限されることになった。
その流れは1957年に始まった勤務評定による教員分断政策に続き、翌1958年には「道徳」が特設され修身の復活かとさえ言われた。
これに対して日教組は地域住民と共に勤務評定反対闘争を大規模に展開した。
その後、弾圧されつつも戦後民主主義の創造への思いは強く、教員のみならず労働組合も現場で果敢に闘いを続けた。
そうした日本の社会運動がピークに達したのは1960年の安保闘争である。
その闘いは敗北し、この辺りから教育への攻撃も一層強まり、全国学力テストの強行実施がなされていった。
ここでも日教組は「学テ反対闘争」を組織して教育の画一化や学校間分断・教員間分断政策と闘うのであった。
この勤評・学テ反対闘争は質的にも量的にも戦後の教育労働運動では画期的ではあったが、
その闘いに恐れを感じていた政府文部省は、闘争が沈静化した後も執拗に日教組をはじめとする闘う教員集団を抑え込み、
あわせて児童生徒の在り方にもタガをはめるようになった。
それは、折しも60年代末期の大学闘争の高揚が当局を一層頑なにさせたと考えられる。
その結果、1969年(昭和44年)の文部省通知「高等学校における政治的教養と政治的活動について」である。
具体的には、未成年者である高校生に対しては「政治的活動にはしることのないようじゅうぶん指導を行なわなければならない」と、
実質的に禁止との見解を示したのである。
これは、先の教育二法とともに教員側にとっても大きなプレッシャーとなっていった。
生徒に対し、現実の社会をどのように提示して学習を進めていくべきか非常に困難を強いられることになったわけだ。
主体的な学習を推進するには、実社会をありのままにとらえて生徒自身が考えるような指導をする必要があるのに、
「政治活動にはしることのないよう・・・」「政治的中立の確保・・・」なる文言が頭をよぎるのである。
その結果、表面的にサラッと済ませて深入りしない教員が増えていくことは容易に想像できるのあった。
(つづく)
<すばる>
近代公教育の黎明期において「education」は「発育」と訳すべきだとする福沢諭吉に対し、
初代文部大臣になる森有礼は「教育」と名付けたというようなエピソードもあるように、
公教育は教え諭すもの・上から与えるもの的なニュアンスだったことを念頭に置いておく必要はある。
日本もドイツ同様に第二次世界大戦で敗戦国となり、その戦争政策を反省して戦後の民主教育づくりに奔走した時期があった。
それこそ、文部省はその先頭に立って民主主義に基づく制度化を行った。
そんな中で1947年には教育基本法も制定され戦後教育の基盤が確立されていったのである。
(この「47教基法」は2006年に安倍内閣によって改訂されてしまった。)
文部省による指導要領も今では信じられないような民主的な理念に満ち溢れていた。
とりわけ社会科の果たす役割は大きく、文部省が示す教育の目的そのものを具現化するものであった。
しかし、日本の「逆コース」化への転換は早かった。
背景にはアメリカがGHQを使って日本を「反共」の砦として操ろうという企みがあった。
非現業公務員のストライキを禁止する等の措置が相次ぎ、
労働組合を弾圧し「行き過ぎた」民主主義的思想や行動をも規制されるようになった。
これは明らかにアメリカの思惑を超えた自由思想や運動を取締る方向へ進み始めたと言える。
アメリカ政府を忖度した日本政府の素早い方向転換であったのである。
ここにおいて、一時は日本の民主化のために大きな役割を与えられた学校教育も徐々に変質していった。
1954年には教育二法と言われる「教育公務員特例法の一部を改正する法律」と
「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」が成立し、
教育労働者の行動が大きく制限されることになった。
その流れは1957年に始まった勤務評定による教員分断政策に続き、翌1958年には「道徳」が特設され修身の復活かとさえ言われた。
これに対して日教組は地域住民と共に勤務評定反対闘争を大規模に展開した。
その後、弾圧されつつも戦後民主主義の創造への思いは強く、教員のみならず労働組合も現場で果敢に闘いを続けた。
そうした日本の社会運動がピークに達したのは1960年の安保闘争である。
その闘いは敗北し、この辺りから教育への攻撃も一層強まり、全国学力テストの強行実施がなされていった。
ここでも日教組は「学テ反対闘争」を組織して教育の画一化や学校間分断・教員間分断政策と闘うのであった。
この勤評・学テ反対闘争は質的にも量的にも戦後の教育労働運動では画期的ではあったが、
その闘いに恐れを感じていた政府文部省は、闘争が沈静化した後も執拗に日教組をはじめとする闘う教員集団を抑え込み、
あわせて児童生徒の在り方にもタガをはめるようになった。
それは、折しも60年代末期の大学闘争の高揚が当局を一層頑なにさせたと考えられる。
その結果、1969年(昭和44年)の文部省通知「高等学校における政治的教養と政治的活動について」である。
具体的には、未成年者である高校生に対しては「政治的活動にはしることのないようじゅうぶん指導を行なわなければならない」と、
実質的に禁止との見解を示したのである。
これは、先の教育二法とともに教員側にとっても大きなプレッシャーとなっていった。
生徒に対し、現実の社会をどのように提示して学習を進めていくべきか非常に困難を強いられることになったわけだ。
主体的な学習を推進するには、実社会をありのままにとらえて生徒自身が考えるような指導をする必要があるのに、
「政治活動にはしることのないよう・・・」「政治的中立の確保・・・」なる文言が頭をよぎるのである。
その結果、表面的にサラッと済ませて深入りしない教員が増えていくことは容易に想像できるのあった。
(つづく)
<すばる>