「羽交い締め、目に激辛カレー わいせつLINEを強要 小学校の教員4人が同僚いじめ」
「送迎を強要、足踏みつけ、セクハラ… 加害の4人は有給休暇 教員間暴力、神戸市教委が会見」
いずれも10/4付、「神戸新聞NEXT」の記事の見出しである。
今、この国の学校現場は当局主導型の「働き方改革」で揺れているが、その下で実に情けない卑劣とも言うべき教員による「事件」が発生した。
この「事件」をとやかく言う以前に、学校現場がこれ程までに荒廃してしまったのは何故か考えなくてはならない。
結論から述べれば、文科省をトップにした「教育改革」という名の教育現場への極度な介入が根本の原因であり背景である。
さらに言うならば、こうしたことは国家の政治体制やその思想性に導かれた教育政策に端を発している。
今日においては、安倍政治の影響がここ教育界にも及んで来ていると断言できる。
「イジメ防止」を一つの旗印にした道徳教育の強化、それに続く「道徳の教科化」、同時にタテマエとは裏腹に人権教育が蔑ろにされ、極右思想に裏付けられた国家主義的な「道徳」が跋扈している。
多少なりとも今日の政治状況に関心を寄せている人間なら、安倍(たち)の今までにとってきた具体的政策や思想・言動は決して褒められるものではないこととして認識できるはずだ。
「リーダーは自ら範を示す」の喩えで言うなら、一国の首相である安倍に忠実になればなるほど、その結果は酷いものになるのは当然のことである。
リーダーにしたがい、リーダーを真似て、リーダーを忖度すると、凡そ普通の人間や社会からすればトンデモナイ事象となって表れることになる。
「森友・加計」問題に露骨に表れた一連の疑獄は未だに解決していない。
死者まで出しておきながら……。
そういえば、あの荻生田氏が現在は文科大臣。
かつて、彼の議員会館の事務所には教育勅語の掛軸が掛かっていたという…。
「表現の不自由展」を含む「あいちトリエンナーリ2019」に、文化庁からの補助金不交付を決めるという暴挙を行った人物でもある。
こうした人物が国の教育行政のトップに座る中では、教育現場の末端で何が起こるか想像しただけでも怖くなる。
再び、学校現場に限って言うなら、教員たちが自由と主体性を失い、常に上からの指示・命令で動かざるを得ない状況が一般化しているのが、悲しいかな今日の学校である。
当然ながら、教員のこうした現実は子どもたちにも即時的に反映する。
すなわち、子どもたちは本来保障されるべき学びの環境が不十分かつ不的確な状態で提供される。
こんな不幸なことはない。
一見、教育労働者の問題でありながらも、実は学ぶ主体の子どもたちの問題であるからだ。
メディアは、もっとこの事実を深刻かつ丁寧に報道してほしい。
こうした、背景の下に今回の神戸の小学校の教員による「事件」は発生したと考える。
単に、教員たちを非難するのではなく、構造的・本質的な目を持って見ていくべきである。
そうでなければ、いつまた事件が発生するかわからない。
その意味では、教育委員会の「再発防止」策など何の役にも立たないことを銘記すべきである。
<すばる>
「送迎を強要、足踏みつけ、セクハラ… 加害の4人は有給休暇 教員間暴力、神戸市教委が会見」
いずれも10/4付、「神戸新聞NEXT」の記事の見出しである。
今、この国の学校現場は当局主導型の「働き方改革」で揺れているが、その下で実に情けない卑劣とも言うべき教員による「事件」が発生した。
この「事件」をとやかく言う以前に、学校現場がこれ程までに荒廃してしまったのは何故か考えなくてはならない。
結論から述べれば、文科省をトップにした「教育改革」という名の教育現場への極度な介入が根本の原因であり背景である。
さらに言うならば、こうしたことは国家の政治体制やその思想性に導かれた教育政策に端を発している。
今日においては、安倍政治の影響がここ教育界にも及んで来ていると断言できる。
「イジメ防止」を一つの旗印にした道徳教育の強化、それに続く「道徳の教科化」、同時にタテマエとは裏腹に人権教育が蔑ろにされ、極右思想に裏付けられた国家主義的な「道徳」が跋扈している。
多少なりとも今日の政治状況に関心を寄せている人間なら、安倍(たち)の今までにとってきた具体的政策や思想・言動は決して褒められるものではないこととして認識できるはずだ。
「リーダーは自ら範を示す」の喩えで言うなら、一国の首相である安倍に忠実になればなるほど、その結果は酷いものになるのは当然のことである。
リーダーにしたがい、リーダーを真似て、リーダーを忖度すると、凡そ普通の人間や社会からすればトンデモナイ事象となって表れることになる。
「森友・加計」問題に露骨に表れた一連の疑獄は未だに解決していない。
死者まで出しておきながら……。
そういえば、あの荻生田氏が現在は文科大臣。
かつて、彼の議員会館の事務所には教育勅語の掛軸が掛かっていたという…。
「表現の不自由展」を含む「あいちトリエンナーリ2019」に、文化庁からの補助金不交付を決めるという暴挙を行った人物でもある。
こうした人物が国の教育行政のトップに座る中では、教育現場の末端で何が起こるか想像しただけでも怖くなる。
再び、学校現場に限って言うなら、教員たちが自由と主体性を失い、常に上からの指示・命令で動かざるを得ない状況が一般化しているのが、悲しいかな今日の学校である。
当然ながら、教員のこうした現実は子どもたちにも即時的に反映する。
すなわち、子どもたちは本来保障されるべき学びの環境が不十分かつ不的確な状態で提供される。
こんな不幸なことはない。
一見、教育労働者の問題でありながらも、実は学ぶ主体の子どもたちの問題であるからだ。
メディアは、もっとこの事実を深刻かつ丁寧に報道してほしい。
こうした、背景の下に今回の神戸の小学校の教員による「事件」は発生したと考える。
単に、教員たちを非難するのではなく、構造的・本質的な目を持って見ていくべきである。
そうでなければ、いつまた事件が発生するかわからない。
その意味では、教育委員会の「再発防止」策など何の役にも立たないことを銘記すべきである。
<すばる>