5/17付東京新聞コラム「時代を読む」で、関西学院大学准教授の貴戸理恵さんが『オンライン居場所』という題名で執筆している。
彼女が関わる「生きづらさからの当事者研究会」も実際に集まることができなくなり、オンライン会議システムZoomを利用しての定例会となったようだ。
はたして「オンライン居場所」は可能だろうか?と、自ら問いを発して分析している。
そして答えは、「可能。ただし対面とは別のかたちで」とする。
パソコン画面越しでも、人と言葉を交わす機会はないよりあった方が良いが、「対面には及ばない」と感じる点がある。
それは、「余白」と「身体性」だとしている。
前者は話し合っている中で、「思いがけない展開が生じる余地」だという。
さらに後者は、「同じ空間に存在する」ことから生じる「言葉を介さずに身体感覚が伝わってしまう」現象である。
つまり、「言葉にはならないけど重要なもの」が生身の会話には存在するというわけだ。
「オンライン居場所」では、こうした予想外の展開は生まれにくいと述べている。
「『生きもの』である私たちは、べたべたの濃厚接触の中で生まれ、死んでいく。だから、『オンライン保育』や『オンライン介護』は決して可能にならない」という話に展開していく。
そして最後に、「オンライン化の流れにただ身を任せるのではなく自覚的に使うためにも、『いったい何が変わるか』を、ここの場面に即して考えていく必要がある」と結論づけている。
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前置きのつもりで貴戸さんのコラムを引用してきたが、実は私が今、最も問題にしたいのは学校教育の在り方についてである。
「オンライン授業」が話題になり、教育関係者と言われる人をはじめ、世の中の流れも大きくオンライン化に傾いている。
元々、ここ数年の学校現場にはITC(情報通信技術)教育の推進という大きな流れがあり、いかに充実させるかが課題になっていた折である。
しかし、私は以前よりこうした流れに大きな危惧を抱いていた。
それは、一言で言うと、「人間を離れた技術が『教育』を席巻する可能性にに門戸を開き、生身の人間関係から生まれる可能性を軽視・否定する方向へ舵を切る」からである。
これを、杞憂に過ぎないとか時代を読まないとか思う人もいるだろうが、決してそんなことはない。
また、「オンライン授業で救われている不登校の子どもたちがいる。」「経済格差が教育格差にもつながる。オンライン化のメリットは計り知れない。全ての子に学びの保障を」などという発想や運動もあるだろう。
たしかに、そういう側面もあるかも知れないし、一人一人の子どもに平等・公平に学ぶ機会を設定するのは行政の務めではある。
例えば、今回のような「コロナ」状況下のような非常時にはシステムが常設されていれば、ある種の目的と使い方によっては有効性を発揮する点があることは否定できない。
しかし、その上にたってもICT教育は推進すべきではない。
敢えて言えば、危機的場面の際にバックアップとして使えるシステムとして設置しておくだけでよい。
それ以上のものではないのだ。
とは言っても、現在のこの国の教育の在り方を見ていると、教員の自由が大きく束縛され「創意工夫」は教育の内容より通信技術の方へ集約される危険性の方が高い。
つまり、文科省を中心とした当局のねらいが、よりストレートに伝達されやすくなるのもICTのメリットとされるわけだ。
こうした権力側のねらいを分析していけばいくほど、「オンライン授業」に始まる「教育」の危機を認識せざるを得ない。
貴戸さんの言葉を借りれば、「オンライン化の流れにただ身を任せるのではなく自覚的に使う」ことが学校教育にも求められているような気がする。
それは、まさに貴戸さんが言われる「余白」と「身体性」こそ、学校教育に不可欠と考えるからである。
<すばる>
彼女が関わる「生きづらさからの当事者研究会」も実際に集まることができなくなり、オンライン会議システムZoomを利用しての定例会となったようだ。
はたして「オンライン居場所」は可能だろうか?と、自ら問いを発して分析している。
そして答えは、「可能。ただし対面とは別のかたちで」とする。
パソコン画面越しでも、人と言葉を交わす機会はないよりあった方が良いが、「対面には及ばない」と感じる点がある。
それは、「余白」と「身体性」だとしている。
前者は話し合っている中で、「思いがけない展開が生じる余地」だという。
さらに後者は、「同じ空間に存在する」ことから生じる「言葉を介さずに身体感覚が伝わってしまう」現象である。
つまり、「言葉にはならないけど重要なもの」が生身の会話には存在するというわけだ。
「オンライン居場所」では、こうした予想外の展開は生まれにくいと述べている。
「『生きもの』である私たちは、べたべたの濃厚接触の中で生まれ、死んでいく。だから、『オンライン保育』や『オンライン介護』は決して可能にならない」という話に展開していく。
そして最後に、「オンライン化の流れにただ身を任せるのではなく自覚的に使うためにも、『いったい何が変わるか』を、ここの場面に即して考えていく必要がある」と結論づけている。
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前置きのつもりで貴戸さんのコラムを引用してきたが、実は私が今、最も問題にしたいのは学校教育の在り方についてである。
「オンライン授業」が話題になり、教育関係者と言われる人をはじめ、世の中の流れも大きくオンライン化に傾いている。
元々、ここ数年の学校現場にはITC(情報通信技術)教育の推進という大きな流れがあり、いかに充実させるかが課題になっていた折である。
しかし、私は以前よりこうした流れに大きな危惧を抱いていた。
それは、一言で言うと、「人間を離れた技術が『教育』を席巻する可能性にに門戸を開き、生身の人間関係から生まれる可能性を軽視・否定する方向へ舵を切る」からである。
これを、杞憂に過ぎないとか時代を読まないとか思う人もいるだろうが、決してそんなことはない。
また、「オンライン授業で救われている不登校の子どもたちがいる。」「経済格差が教育格差にもつながる。オンライン化のメリットは計り知れない。全ての子に学びの保障を」などという発想や運動もあるだろう。
たしかに、そういう側面もあるかも知れないし、一人一人の子どもに平等・公平に学ぶ機会を設定するのは行政の務めではある。
例えば、今回のような「コロナ」状況下のような非常時にはシステムが常設されていれば、ある種の目的と使い方によっては有効性を発揮する点があることは否定できない。
しかし、その上にたってもICT教育は推進すべきではない。
敢えて言えば、危機的場面の際にバックアップとして使えるシステムとして設置しておくだけでよい。
それ以上のものではないのだ。
とは言っても、現在のこの国の教育の在り方を見ていると、教員の自由が大きく束縛され「創意工夫」は教育の内容より通信技術の方へ集約される危険性の方が高い。
つまり、文科省を中心とした当局のねらいが、よりストレートに伝達されやすくなるのもICTのメリットとされるわけだ。
こうした権力側のねらいを分析していけばいくほど、「オンライン授業」に始まる「教育」の危機を認識せざるを得ない。
貴戸さんの言葉を借りれば、「オンライン化の流れにただ身を任せるのではなく自覚的に使う」ことが学校教育にも求められているような気がする。
それは、まさに貴戸さんが言われる「余白」と「身体性」こそ、学校教育に不可欠と考えるからである。
<すばる>