「教え子」という言葉は使うのも面映ゆいのだが、これといって言い換える適当な言葉が思い浮かばないので使わせていただく。
その31年前の教え子であるRさんと偶然にもFacebook(以下FB)上で出会ってしまった。
よく考えてみれば偶然どころか容易に出会う可能性があるわけだが、私にしてみれば心臓が一瞬止まったかのような驚きであった。
Rさんから「友達リクエスト」があった際、オーストラリア在住で日本人ながらFB上の記事はほとんどが英語で興味ある文化等の紹介もあったため「承認」した。
この時点では全くRさんに気付かなかったし、メッセージとして送られてきた文も最後の部分しか目に入らず全文を読んでいなかった。
Rさんもこの時点では、私を明確に小学校時代の担任だとは認識してはいなかったようだ。
「人違いでしたらごめんなさい」等と書かれた文面からもそれは分かる。
それが何故分かったかというと、私がFB上に梅酒を仕込んだ写真をアップした時のこと。
それを見たRさんは「○○ゼリーを思い出します」とコメントされました。
「えっ、○○ゼリーを知ってるなんて・・・?」
そうです、沢山の梅の木に囲まれた○○小学校は、毎年梅の実から梅ジュースを作り、給食ではそれをゼリーにしてデザートとして出してくれました。
これは代々続いて、卒業生は誰でも「○○ゼリー」を知っているのです。
まさに梅がとりもつ縁とも言える。
私は早速当時の卒業アルバムや学級通信を引っ張り出した。
写真は全てがモノクロだった。
文集は当然全てが手書きオンリー、私の悪筆が恥ずかしげもなく踊っている。
私の子どもたちへのメッセージは、「『生きる』って何だ」と銘打ち20世紀後半の科学技術の進歩によってつくられた繁栄を批判し、平等ではなく画一性へ向かう時代性に危機感を抱き、一人ひとりが異なる人格を持っているその違いこそ大切にしていかなくてはならないと訴えていた。
今思うと冷や汗が出るような語り口だが、客観的に見ると、30そこそこの若造が精一杯子どもたちへ向けて熱き思いを伝えているのが感じられる。
たしか、あれは卒業式の日だった。
式が終わり教室へ戻り最後の話を終えた時、クラスを代表してかRさんが花束を抱えて私の所へやってきた。
彼女の目は赤く涙に濡れていたのを今でもはっきり覚えている。
学年2クラスで、主任のクラスは規律正しく見た目整然と生活し、我が2組は明るく自由奔放でしばしば破目を外すクラスであった。
しかし、毎日が活気に溢れていた。
こんなこともあった。
クラスのある子が、子どもの詩を取り上げて紹介する宮城まり子のテレビ番組に詩を投稿し採用された。
学校にテレビ局のカメラが入り、教室や体育館での授業風景や休み時間等々、私たちのクラスの様子を撮影した。
数日後から、一週間にわたって毎日数分づつ放映された。
また、卒業遠足と称して、学校行事でもないのに、日曜日に希望者全員を連れて代々木公園に行ったこともあった。
今の学校では、担任と子どもだけで決めて動いていくこのような「学級経営」は認められないことだろう。
おそらく管理職はハラハラしながら見つめていたことだろうが、一言も苦言を呈することはなかった。
彼らによって私の教育実践は子どもたち同様に自由を通すことができたのだと思う。
ただ、私の強みは、週刊で学級通信を発行してクラスの動きや私の思いを保護者に伝えていたことだと思う。
だから、代々木公園にも何人かの保護者の方が心配してかついて来てくださった。
何でも子どもたちに話すから、学芸会の演目を決める際にも彼らの意見を聞いた。
当時の学級通信を見ると、「劇をやりたい。」
「既にある話を使う。」
「昔の話がいい。」
「喜びや悲しみのある内容がいい。」
これを基に様々な脚本を読みあさった結果、「かさ地蔵」に決まった。
ただし、普通に演じるのではなく、舞台の中央に手作りスクリーンを下げて裏からOHPの光を当てて影絵を映し出しながらの劇である。
テレビ番組でもお馴染みのテーマソングを散りばめ、最高にいい感じで上演したのを覚えている。
表舞台に出る子は数人だけで、音楽係から雪を降らす係、影絵の人形を操る係等々、全員で分担して創り上げた劇であった。
私は、その前にもその後にもこれだけ子どもたちと息を合わせた学芸会は存在しなかった。
こんな30年以上も前のことを思い出したのも、FBでのRさんとの再会であった。
今度、機会があったらオーストラリアへ渡り、当時の思い出話をしてみたいと思う。
<やったるで>
その31年前の教え子であるRさんと偶然にもFacebook(以下FB)上で出会ってしまった。
よく考えてみれば偶然どころか容易に出会う可能性があるわけだが、私にしてみれば心臓が一瞬止まったかのような驚きであった。
Rさんから「友達リクエスト」があった際、オーストラリア在住で日本人ながらFB上の記事はほとんどが英語で興味ある文化等の紹介もあったため「承認」した。
この時点では全くRさんに気付かなかったし、メッセージとして送られてきた文も最後の部分しか目に入らず全文を読んでいなかった。
Rさんもこの時点では、私を明確に小学校時代の担任だとは認識してはいなかったようだ。
「人違いでしたらごめんなさい」等と書かれた文面からもそれは分かる。
それが何故分かったかというと、私がFB上に梅酒を仕込んだ写真をアップした時のこと。
それを見たRさんは「○○ゼリーを思い出します」とコメントされました。
「えっ、○○ゼリーを知ってるなんて・・・?」
そうです、沢山の梅の木に囲まれた○○小学校は、毎年梅の実から梅ジュースを作り、給食ではそれをゼリーにしてデザートとして出してくれました。
これは代々続いて、卒業生は誰でも「○○ゼリー」を知っているのです。
まさに梅がとりもつ縁とも言える。
私は早速当時の卒業アルバムや学級通信を引っ張り出した。
写真は全てがモノクロだった。
文集は当然全てが手書きオンリー、私の悪筆が恥ずかしげもなく踊っている。
私の子どもたちへのメッセージは、「『生きる』って何だ」と銘打ち20世紀後半の科学技術の進歩によってつくられた繁栄を批判し、平等ではなく画一性へ向かう時代性に危機感を抱き、一人ひとりが異なる人格を持っているその違いこそ大切にしていかなくてはならないと訴えていた。
今思うと冷や汗が出るような語り口だが、客観的に見ると、30そこそこの若造が精一杯子どもたちへ向けて熱き思いを伝えているのが感じられる。
たしか、あれは卒業式の日だった。
式が終わり教室へ戻り最後の話を終えた時、クラスを代表してかRさんが花束を抱えて私の所へやってきた。
彼女の目は赤く涙に濡れていたのを今でもはっきり覚えている。
学年2クラスで、主任のクラスは規律正しく見た目整然と生活し、我が2組は明るく自由奔放でしばしば破目を外すクラスであった。
しかし、毎日が活気に溢れていた。
こんなこともあった。
クラスのある子が、子どもの詩を取り上げて紹介する宮城まり子のテレビ番組に詩を投稿し採用された。
学校にテレビ局のカメラが入り、教室や体育館での授業風景や休み時間等々、私たちのクラスの様子を撮影した。
数日後から、一週間にわたって毎日数分づつ放映された。
また、卒業遠足と称して、学校行事でもないのに、日曜日に希望者全員を連れて代々木公園に行ったこともあった。
今の学校では、担任と子どもだけで決めて動いていくこのような「学級経営」は認められないことだろう。
おそらく管理職はハラハラしながら見つめていたことだろうが、一言も苦言を呈することはなかった。
彼らによって私の教育実践は子どもたち同様に自由を通すことができたのだと思う。
ただ、私の強みは、週刊で学級通信を発行してクラスの動きや私の思いを保護者に伝えていたことだと思う。
だから、代々木公園にも何人かの保護者の方が心配してかついて来てくださった。
何でも子どもたちに話すから、学芸会の演目を決める際にも彼らの意見を聞いた。
当時の学級通信を見ると、「劇をやりたい。」
「既にある話を使う。」
「昔の話がいい。」
「喜びや悲しみのある内容がいい。」
これを基に様々な脚本を読みあさった結果、「かさ地蔵」に決まった。
ただし、普通に演じるのではなく、舞台の中央に手作りスクリーンを下げて裏からOHPの光を当てて影絵を映し出しながらの劇である。
テレビ番組でもお馴染みのテーマソングを散りばめ、最高にいい感じで上演したのを覚えている。
表舞台に出る子は数人だけで、音楽係から雪を降らす係、影絵の人形を操る係等々、全員で分担して創り上げた劇であった。
私は、その前にもその後にもこれだけ子どもたちと息を合わせた学芸会は存在しなかった。
こんな30年以上も前のことを思い出したのも、FBでのRさんとの再会であった。
今度、機会があったらオーストラリアへ渡り、当時の思い出話をしてみたいと思う。
<やったるで>
Rさんから私のFBにも連絡がありました。
もちろん31年ぶりです。
そして、先生のブログを読んで忘れていた事も色々と思い出しました。
懐かしいですね。