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3.11の大津波によって84人の尊い命(児童74人、教職員10人)(行方不明者を含む)が奪われた石巻市立大川小学校。
あれから7年4ヶ月も経過してしまった。
メディアが 、そして友人たちから伝えられる情報で、何となく分かったつもりでいた自分がいた。
亡くなった子どもたちの遺族23人が起こした裁判は一二審とも原告側の「勝訴」ではあったが、子どもたちの命が戻って来るわけではない。
二審の仙台高裁の判決では「校長らは震災前に校舎周辺への津波襲来を予見できたのに、危機管理マニュアルに避難場所を明記するなどの対策を怠った」と指摘した。
そうなんだ…。
しかし、それも頭の中でだけで想像するにすぎなかった。
果たして現地に初めて自分の足を踏み入れた瞬間から、私は胸の鼓動が高まるのを感じた。
そこは大河、北上川の右岸に沿う所だった。
大川小の校舎だけがポツリと建っていた。
いや、立ち切れずに鉄筋が剥き出しになるまでに破壊された部分もあった。
さらに校舎の近くに寄ると、跡形もなく流されてしまった施設も姿を露わにしていた。
今は大川小だけが残されているが、ここには人々が暮らす街があったのだ。
雄大に流れる北上の大河のほとりに人々の生活が営まれ、その温かい街の中にあった地域の小学校からはいつも明るく元気な子どもたちの声が響いていたに違いない。
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野外ステージの外壁に子どもたちによって描かれた夢のある楽しげな壁画が、今は街もない子どもの姿も見えない中で一際輝きを放っていた。
その絵をカメラに収める私の目頭は緩んでいた…。
地震が発生してから51分もの間、子どもたちは校庭に待機させられていたという。
どんな気持ちで彼らはそこにいたのであろうか…。
教員たちはいったいその間、何を考え何をしていたのだろう…。
寒い校庭でじっとしているだけで体が冷え切ってしまったのではないだろうか…。
想像するのも辛くなる、今は荒れ果てた校庭…………。
かつてメディアが伝えた学校の近くの裏山とは、本当に険しいのだろうか?
私たちは学校敷地沿いにある道路と地続きの山の方へ歩を進めた。
えっ! これって言われていた裏山じゃないの⁉︎
そこは、普通に登れるというか歩いて先に行けるなだらかな山道じゃないか!
(翌日、佐藤俊郎さんに案内されて現地に足を踏み入れてさらに確信できた。)
単なる怒りとは異なる「怒り」が湧いてきた。
何故なんだ⁉︎
何故、ここへ避難して来なかったんだ!
何ともやるせない思いが脳裏を巡った。
今、初めて『大川小学校』に向き合おうとしている自分がいる。
<すばる>