アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

アメリカの医療について(2)

2009-02-19 04:58:57 | Weblog
お薬は医療分業制です。(当時は日本では分業制ではありませんでした)
医者の書いた処方箋をもって薬局にもって行き購入する仕組みになっていました。
夜中に急に病気になった場合、ホームドクターのオフィイスに電話するとドクターエックスチェンジが出るので名前、容態、電話番号を告げるとホームドクターに繋げるシステムになっています。
暫く経つとドクターから電話が掛かってきて適当な指示を与えられます。
特に緊急な場合は 911 にダイヤルして救急車を手配します。ホームドクターの病院が近い時は、その病院に連れて行くように指示をします。
一刻をを争う時は最寄の病院に運びこまれます。 911 は緊急の場合の連絡番号ですので覚えておきましょう。

私はデェズニーランドで転び大怪我をしたことがありました。
丁度上の娘がアメリカに遊びに来て一緒に行った時でした。
動物が歌を歌っているショーを観るために劇場に入り、薄暗い劇場内に目が慣れていないのに席に座ろうとして席の横の金具に膝がぶつかり転んでしまいました。
その時はそれほど痛みえを感じなかったのですが、ショーを見終わって膝を見たら膝から血があふれていて吃驚して出入り口の近くにあるデェズニーランドの事務所に駆けこみました。
事務所の人は直ぐにを車椅子に座らせ、離れている事故現場からひどい血を流しながら事務所まで来たことにびっくりしていました。
救急箱を提げて可愛いお年寄りの女の人がきて、私の膝の応急処置をして、ホームドクターの名前を確認してドクターの診療所の近くの病院へ救急車で搬送するように手配してくれました。
夫には駐車場にある私の自動車を取りに来てもらいました。

アメリカの医療について

2009-02-18 16:44:38 | Weblog
アメリカに来ている駐在員の一番の心配ごとは病気になった時で、医療についての予備知識が乏しい事です。
駐在員の家族には小さい子どもさんのいる人が多いため、米国の医療事情についての説明がありました。

「日本とアメリカの病院のシステムは違いがあります。
始めての方は戸惑いされると思いますので簡単に説明します。
米国ではホームドクター制が基本となっています。ホームドクターは大きな病院や診療所と提携を持っています。
ホームドクターはオフィイスで診たてを中心に診察して、必要に応じて血液や尿のサンプルをとって生理検査を行います。
生理検査で採られたサンプルは病理学専門ののラボに分析のため送られます。
レントゲンをとる必要のある場合は放射線専門医の経営するオフィイスにアポイントメントして、そこへ行くよう指示されます。
そして病理学ラボの分析の結果はホームドクターにフィルドバックされます。

一般的にドクターの診察を受けたい時は直接病院に行くことが少なく、先ずホームドクターのオフィイスに予約をすることから始まります。
もし入院、または手術の必要ありと診断されたら場合、ホームドクターの関係している病院に入院、または手術をする手続きがとられます。
出産などの時も同様な要領で行われます。

ヤオハン(スーパーマーケット)

2009-02-16 04:32:30 | Weblog
住んでいるアパートからで20分ほどのところに、日本から進出してきたスーパーマーケット ヤオハン が開店しました
(現在は名前はミツワと変わっています)日本でも聞いたことがなく、調べてみると海外進出をして成功しているスーパーマーケットでしたが、私たちが日本に帰ってから倒産して別会社になりました。
建物は蒼い屋根瓦です。建物の内部は半分はスーパーマーケットで日本の食料品等なんでも揃っていました。
後のスペースは個別にお店があり、電気屋、本屋、化粧品店、陶器店、貸しビデヲ店、美容院などが並び、奥のスペースには寿司、うどん、蕎麦、中華、パン屋などありそれぞれのお店で注文してセルフサービスで食べるためにテーブルが沢山ならんでいました。
ここに来ると全く日本と変わりなく、値段はとても安いので良く利用しました。

貸しビデオ店は日本ので放映している、連続ドラマ、徹子の部屋、バラエティー番組などあり、いつも借りて見ていました。
本屋では毎日の新聞が買えました。

ヤオハンの出入り口のコーナーでは日系人や駐在している日本人やアメリカで住んでいる日本人のために日本語で書かれた無料の情報誌が置いてあり、現地の生活情報を得るのに大変役に立ちました。

リトル東京 (4)

2009-02-15 10:02:21 | Weblog
二世の時代になった日系人は良く働き社会奉仕にも参加し、7つ以上の重要な合戦で18000以上の勲章をを受ける武勇伝を暦史に残した。
彼らの戦功が米国政府や一般人に、日系の忠誠心とデモククラシーに対する憧れを持っていることを信じさせた。

1946年羅府新報(新聞)が再刊された。

1910年頃から庭園業に従事する人が一世には多かった。農家出身の日系人にはもってこいの仕事で、大方は白人のスクールボーイとして雇われ庭の手入れを頼まれているうちに、それらのほうが収入が多い事がわかり専念するようになった。
元の百姓や大学出の二世までも庭園業へと転じた人も多かった。1955年南加庭園業連合を作る。

1981年リトル東京再開発が始まる。
地上16階300戸の高齢者アパートを建設、1978年日本村ショッピングセンターが完成し、48軒の店舗が開店した。
このセンターのシンボル的建造物となっているのが日本独特な 青瓦葺き屋根の火の見櫓 で リトル東京 の新しい名物として現地の人から注目されるようになった。

休日は夫と二人で出かけて、日本村のお店で、今川焼き、さつま揚げなど出来たばかりのものを買ったり
その他の日本の食品も1週間分買い物してオレンジカウンティーのアパートへ帰ったものです。
暫くしてオレンジ カウンティーにも日本のスーパーマーケットが出来たのでリトル東京に買い物に行く機会が少なくなりました。
しかしロスアンゼルスを訪れる日本からの観光客にとっては欠かせない観光コースの一つになっています。 

リトル東京 (3)

2009-02-14 05:33:05 | Weblog
1930年は二世の成人時代といえる。日系人の半分が米国生まれとなっていたが、投票年齢に達したものは4千人しかいなかった。
西部沿岸の日本人会は、まだ一世の支配下にあり、彼らは日本人としての権利を主張したが、二世は米国市民権を主張するという異なった道を歩んでいた。
一世は米国という自分達が容易になじめない国へ抵抗なくなじんでいく二世に誇りを感じると同時に、その反面矛盾した気持ちで彼らを見守っていた。
日本語しか話せない一世と、英語を主に話す二世の衝突点は、日本の攻撃的な外交方針についてであった。
日本軍のアジア大陸における戦勝のニュースは、一抹の誇りを感じることなく、寧ろ、中国を支援する米国に負担共鳴する二世の態度が一世にとっては、はなはだ理解に及ばぬところとなった。

米国時間、1941年12月7日(日曜日)日系アメリカ人にとって永遠に忘れることの出来ない日が到来した。
日本海軍が真珠湾攻撃をしたのであった。
不安に満ちたリトル東京は呆然とさせたが米国陸軍は速やかに行動した。
西部防衛司令部が編成されいち早く奥深い土地へ移転させることにした。
FBIが来て殆どの日本人の男性が逮捕された。多くに役所、社会評論家はや一般の大衆まで、露骨な排日攻撃に乗り出した。
南カリフォルニアのいたるところから集まった9万2000人の日系人の殆どが奥地の砂漠や沼地に設けられた鉄柵に囲まれた強制収容所へ送られた。
残ったリトル東京は廃墟に変わり果てた。

日系人が収容所から太平洋沿岸へ帰ることが出来たのは1945年の春であった。
住宅難、根強い反日感情のなどの憂いが残っているロスアンゼルス区域へ、2万5000人以上の日系人が舞い戻ってきた。
戦前に幅を利かせた農場、農産物市場や漁場に昔の面影はなく、戦後は70%が白人の下で働きサラーリーマンになっていた。

リトル東京 (2)

2009-02-13 05:24:48 | Weblog
1907年3万人以上の日本人が米国に新しく移住している。
1年間の日本から米国へ移住した人々の最も多い年であった。
1年後には明治政府が 紳士協定 を結び、その後労働者は米国に送る事を禁じ、免除されたのは専門職、技術者、または米国に既に入国している家族のみに限られたのであった。

1913年にカルフォルニア州議会へ 「外国人による土地所有者禁止と借款の制限」 が提案され制定された。
カルフォルニア州における排日運動が初めて立法化して、日米間の感情悪化の一要因としてその後長く影響を及ぼした。
ロスアンゼルス在住の日系人は7対1と男性が圧倒的に多く、その大半は永住する意志を持たなかったが、時が経つにつれ次第に南カルフォルニアに根を下ろしていく者が増えていった。

伴侶を得るために 写真結婚 があり、女性を乗せた船が着くサンフランシスコまで迎えに行った。色々なエピソードが語り伝えられたが、大方の結婚は上手くいったようだ。

排日感情は相変わらず続いた。 
アジア人は白人の頭脳を盗む などの見出しが紙面を賑わし、日本人に対する暴行は日常茶飯事であった。
住宅地も歓迎されなく 「馬鹿にされ通しでしたよ。
でもリトル東京にいれば、そんな辱めは受けなくてはすみました。」 と靴屋の経営者は語った。

1915年ロスアンゼルス領事館が設立
1914年から1924年の間、日系社会は強く鍛えられ、1925年から強靭な組織力によって発展していったのは3つの理由があった。
一つは依然日系人を囲む社会が強い排日感情があったこと。
二つ目は二世がだんだん増えてきたこと、三つ目の理由は農作業を営む日系人が比較的安定した経済に基礎を作っていたことであった。

第八章 リトル東京

2009-02-12 07:03:22 | Weblog
がアメリカにいた1987年~1993年の間は大勢の日本人がロスアンゼルスやオレンジカウンティーの地域に住んでいて、その時のリトル東京はとても賑わい活気がありました。
リトル東京のあるロスアンゼルス周辺には多くの日系人が住み、日系人にとっては日本の文化、社会等を知り学べる中心地でもあります。

何時頃どのようにして、リトル東京が形作られたのか興味がわきその歴史を調べてみる事にしました。下記の文献が手に入り、その日本語訳の一部を記載したいと思います。 「A Project of Visual Communication /Asian American Studis Central,Inc.Funding Provided Little Tokyo Centennial Committee  Los Angeles 」(古本)

1885年日本人が小さいレストランを開いたのが、これがリトル東京の発祥と言われている。
その頃には、既に24人ほど日本人が仕事を求めてロスアンゼルスに来ており教会の地下室が彼らのたまり場としていた。
東一街は舗装整備も未完成で埃だらけの通りで周囲といえば農場か果樹園しか見当たらなかった。
日本人の人口も70人ほどになり、大半は白人家庭の使用人か、日系人の経営する小店舗の雇用人として働いていた。

1890年代にはロスアンゼルスも目覚しい成長をとげ、鉄道会社が日本人を貨物列車の掃除や鉄道の修理に雇うようになった。
1897年サンフランシスコ領事館に代わって、日本人会の設立、日本人と白人間の騒動の仲裁や会員に対する差別待遇の抗議など、日本人社会で山積していた。
その頃排日感情が一段と厳しくなる。

カレッジにあるESLで学ぶ(2)

2009-02-11 04:49:55 | Weblog
先生は読書をとても薦めていました。
カレッジの図書館には、私たちが借りられるコーナーがあるからと教えて、そして自分達のレベル以上の本をどんどん借りて読みなさいと、授業がある度に言っていました。
は、早速図書館に行きました。
色々な本を借りて読みました。日本では小学5,6年のレベルではないかと思います。

読んだ本で一番印象に残っているのは作者 ジョン・スタインペック の 「怒りの葡萄」 でした。
日本語で翻訳した本は既に読んでいましたが、原本を(子供向き)を読んでいると夢中になり涙が出てきて止まりませんでした。
翻訳した本を読んだときは涙が出なかったので、原本との違いがよくわかりました。

カレッジの学生証を持っていると色々な施設が使えました。
教科書や文具を購入するためにショップに行くと出入り口に沢山の四角い箱が積み重なっていて、その中にリュックサックや手提げかばんを入れ、お財布だけもってゲートから入ります。
文具類は安く、倉庫のような奥の部屋に教科書が沢山あり、その中から決められた教科書を選び、出口で支払いを済ませますが、荷物を持って入れないようにしているのに感心しました。

カフェテリアでは食べ物がとても安く、サンドイッチや飲み物を選び出口で支払いを待っていると、若い男の人たちはお財布からでなくポケットから小銭を出して支払っていました。
私は授業は一日も休まず、真面目に勉強したので単位ももらえました。

カレッジに入学するにはESLで学んだ学力と入学に必要な書類や条件を満たしていれば入れますが、それは私にはとても無理なので、レンガ建築のカレッジに通うだけで満足していました。

カレッジにあるESLで学ぶ

2009-02-10 05:37:32 | Weblog
アダルトスクールにベラさんとサビーナがさんがこなくなり寂しくなりました。

アダルトスクールの少し離れたところにOCカレッジがあり、ESL(English as a Second Language)の語学研修プログラムがありました。
正規留学生を目指す人が対象でした。大学進学は私の夢でした。試しに試験を受けてカレッジで勉強したくなりました。
こちらは年齢に関係なく門戸は開かれていました。いつもの「あたって砕けろ」の気持ちでESLのオフィイスへ行ってみると、その日に直ぐに  試験を受けさせられました
試験の問題を聞いてもよくわからないので、適当に答えをだして、とても受からないとあきらめていたのですが受かったのです  落ちた人もいる話を聞いていたのでまぐれで入ったと思っても嬉しかった

カレッジのオフィイスで学生証とを駐車場に停められるステッカーをもらい教室に行きました。
若い生徒ばかりで私が一番年上でした。アジア系やメキシカン系の生徒が多く、一人だけ日本人の女生徒(高校を卒業したばかりの若い人)がいました。レベルは一番下でしたが、最初に教科書と薄い小冊子を渡されました。
先生は男の先生で奥さんは日本人だと話していました。
授業はとてもわかり易く、小冊子を何度も読まされました。この物語が結構面白いんです



アダルトスクールで知り合った人達(3)

2009-02-07 12:54:06 | Weblog
サビーナさんとは席が隣だったので話しをするようになりました。
彼女はより年下で、気の弱い人でした。
そして、とても周りに気を遣う人でした。でも頭のいい人で先生に指されて黒板に書く答えは正確でした。
当時彼女には婚約者がいて結婚を楽しみにしていました。
私が後日、日本へ帰国する時に彼女に自動車を譲りましたが、免許を取るつもりだったのですが度胸がなく取らなかったようでした。
結婚してゲートつき(連絡してゲートをあけてもらう)の高級なマンションに住んでいましたが、マンションのプールにも誰もいないことを確認して泳ぐとの事、私の友達は マサコ だけよと言っていました。

ベラさんは私よりも年上で、ご主人と2人でコンドミニアムを購入して暮らしていました。
ベラさんのほうから私に話しかけてくるのですが、話がよくわからないのです。お年のせいか自分勝手に判断してしゃべりまくっていました。でもその度胸はたいしたものだと思いました。
勉強はそれほど熱心でなく話をしに来ていたようで、家に遊びに来てと何回も言うので、当時日本から娘が遊びに来ていたので、2人ベラさんの家へ訪問すると、とても温かいもてなしをしてくれました。
ベラさん夫婦はチェコにも家があり、アメリカとチェコを行き来していました。

私たちは日本にかえってからもお付き合いが続きご夫婦の国チェコへ、と二人で自分達で計画し、オーストリヤ観光とチェコの田舎へ遊びに行き、家に泊まらしてもらいました。アダルトスクールで知り合い、チェコの田舎へ行けるとは思ってもいませんでした。