アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

乗り換えの空港で・・

2012-07-04 07:47:36 | 旅行

観光中に、プラハから娘へ、国際電話をした。「チェコの首都プラハは街全体が美術館で建物を見ているだけでも楽しい。

是非、これからの旅行にはプラハを観光するといいわ」と興奮して伝えていた。

首都プラハは、ヨーロッパの中世の雰囲気が、そのままが残っている建物が多い。戦争で爆弾が落とされなかった。

ベトシーンの丘からの眺めは、たくさんの塔が林立していた。「百塔の町」と言われている。このような都市は他の国にはないと思う。

泊まったホテルの朝食はバイキングで、美味しいものばかりであった。

ソーセイジは種類も多く、ベラさんがランチにだしていた、蒸しパン だんぶりん は柔らかく美味しかった。だんぶりんとベラさんが言っていたが、

クリドリーキのことでチェコ料理で有名です。   朝食、昼食、はベラさんの手作りで、夕食は、甥の家などで、チェコ料理をご馳走になった。

ホテルの朝食は美味しいので少し食べ過ぎだったが、お昼は簡単にして、夕食は中華にした。



2001年9月12日

朝7時20分にホテルのチェックアウトして、タクシーで空港へ。

フラントフルトで乗り換える。飛行機は日本人が約7割。

夫の手荷物と一緒に一人で番をしていたら、

「〇〇〇 マサコさん 大至急〇〇までお越しください」

フランクフルトの乗り換え場所で待っていると、放送された。びっくり仰天・・

なぜ私の名前が呼ばれるのか わからない。帰りの手荷物は増えて多く、二人分を抱えることができない。どうしよう どうしよう と思っておろおろしていると、また、

「〇〇〇 マサコさん、〇〇〇 マサコさん 大至急きてくだい」

と、大きく放送された。

そのうちに、夫の顔が見えてきた。「悪い、悪い、マサコの航空券をおとしてしまった。いま話してきたから」と、いう。

フランクフルトで、私の名前が大きく放送されるとは、パスポートと空港券すべて夫が所持していて、身分証明するものがないと、いつもほんとうに心細かった。

自分のものは持ちたいと言っているのだが・・ 海外旅行は各個人で持たなくてはならない。

これも、予想もつかないことであった。10年前のことなのにしっかりと覚えている。

この旅行からパスポートや航空券は各自で持つことになった。

2001年9月13日 東京成田に午前8時着、お昼には家に着いた。このあとしばらく空港はテロのため飛行機が飛ばなかった。