When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。元和三年(1617)天海憎正が駿府から下野国へ神輿を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。(Resource:埼玉の神社>箭弓稲荷神社)
小泉稲荷神社 由緒
御祭神倉稲魂命、大己貴命をお祭りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神大皇の御代に豊城入彦命東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉祀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられています。
其の後、慶長五年此の地の領主久永源兵衛崇敬の念があつく社殿を修理し敬神の範を示した為に領民は氏神としたといわれています。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常ににぎわったといわれています。
明治、大正時代を経て昭和の御代に入り社殿も老朽化したので社殿造営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により、昭和三十六年四月、現在の社殿を造営しました。
倶利伽羅不動尊(くりからふどうそん)
躍動する胴体を持った黒竜が利剣にからみ、その利剣を剣先から呑み込もうとしています。その左かたには鋭い爪を持った竜の手が、宝珠をわしづかみにしています。これが倶利伽羅不動尊であります。
倶利伽羅とは、インドの伝承で頭に半月を戴く、黒褐色の竜王であるといわれています。
倶利伽羅不動尊は、滝口や清水の湧出する水辺などに祀られることから、水神として造像されるものが多く、他に不動信仰に基づいたものがある。
この倶利伽羅不動尊は高さ九十cm、幅三十三cm、厚さ二十二cmの大きさで、造像された年代は不明ですが、江戸時代の作であろう。また、清水のところに祀られていることから、水神として造立されたものであろう。
昭和五十九年三月 東松山市教育委員会