When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
円 心 寺 (えんしんじ)
円心寺は浄土宗の寺で、山号を要行山先求院(ようぎょうざんせんきゅういん)といい、本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によれば、当山は天正年中(1573~1592)の建立で、開山は教誉及天(きょうよきゅてん)と称し、天正九年(1581)に示寂。のち慶長八年(1603)に小笠原左衛門佐信之(おがさわらさえもんのすけのぶゆき)がその帰依僧円心房(えんしんぼう)を三河国から招いたと伝えられる。
山門は天明年中(1781~1789)の建立といわれ、三間一戸(さんげんいっこ)(柱間が三つで真中があいている)重層の建物で、木割を縦横に駆使し、社寺建築技術が最も発達した時期の所産で構造だけでなく総体的に安定した美観を表現するよう工夫されている。
昭和五十三年に解体修復し、翌五十四年に本庄市指定の文化財となっている。
昭和六十一年三月 埼玉県・本庄市
『2010年7月に「那須高原展望台」が全国で100番目の「恋人の聖地」に認定され、那須ハイランドパークはその「サテライト施設」として認定されました。』
『園内のロマンチックなムードも然ることながら、ジェットコースターなど絶叫アトラクションに乗車した際の「吊り橋効果(「怖い」と感じるドキドキ感が、相手への「好意」として認識される心理)」などの心理学的効果もカップルである2人の距離をより近づける可能性を秘めています。』
現在の社殿は天保6年の再建に係り、大里郡河原明戸大工棟梁飯田仙之助弟子四人と共に技を競いて造営に心魂を傾けたものと云われる。社殿の周囲は豪華絢爛たる総彫刻をもって埋められ、本県内にも稀に見る構造と称せられ、昭和30年11月東松山市教育委員会により重要文化財として指定された。例大祭は7月24日25日の二日間執行され、24日には朝暁より夜半に至るまで、二百貫の大神輿の渡御が全市に亘り行われ、近郷よりの人出約三万東松山市最大の祭典となっている。:ここです→ ブログ人マップ
(Resource:比企郡神社誌)
川圦神社
大越の外野にある川圦神社は、もとは堤防の外、つまり現在の河川敷のなかにあった。そこには川圦河岸という舟着場があって、毎日大変にぎわっていたが、舟運の廃止でいつしか河岸は姿を消してしまった。また、利根の改修で堤防が拡幅されたため、川圦神社もやむなく現在地に移転を余儀なくされたのである。ある年、連日の大雨で水かさが増し、堤が切れそうになった。神や仏に一心に祈ったのだが、水は一向にひかず、村人のなかから「人柱をたてなければ村が危ない」という声が出てきた。そのとき、川が越えられないで近くに止まっていた六部に皆の目が向けられた。興奮した村人によって、母娘2人の六部が激流に投げ込まれたのはそれから間もなくのことであった。ようやく雨はやみ、堤もことなきを得たが、それから村に疫病がはやったり、作物が不作になったり、悪いことが続くようになった。
洪水から村を救うためとはいえ、旅の六部を人柱として利根川に投げ込んだ村人は、それがだれ言うとなくその後村に不幸が続くのは「六部のたたりだ」ということになったので、恐怖に恐れおののき生きた心地もなくなってしまった。村人の間では、「はやくなんとかなってくれればよいが」と心中で神々に祈ったのだが、不幸は次から次へと続いた。そこで、村の長老は、村中に起こっている不幸と、人柱の話を「このままにしては置けない」と寄り寄り相談をして、六部の霊を川圦神社に祀り丁重に供養した。ところが間もなく不幸なできごとも治まり、村人も安心して家業に精を出すことができるようになった。人間はこのように、何か困ったことが起きると、自分に都合のよい理由をつけて、何のかかわりもない人を犠牲にしやすいが、それはやがてわが身にはね返ってくるものだ、ということを心しなければならない。川圦神社は最近改築されて立派になった。
(Resource:利根川上流河川事務所>利根川の紹介>歴史散歩「利根川の碑」>川圦神社)
伝承 川圦さま
ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。困った村人たちは、水が引くのを待って泊っていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを減って無事に工事を完了することができました。その後巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます。
昭和六十三年三月 加須市教育委員会