When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
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武蔵國一の宮氷川神社(現在のさいたま市)と、「上(かみ)氷川・奥(おく)氷川神社(現在の奥多摩町)」との中間に鎮座するため、中(なか)氷川神社と呼称されるようになった。
由緒
当社は崇神(すじん)天皇の朝に創祀せられ、武蔵國造(長官)の崇敬厚く平安時代に朝廷が編纂した延喜式(国の法律書)神名帳に記載された、祈念國弊社(当時の官社)であった。
中古は、入間・多摩二郡にまたがる九十二ヶ村の総鎮守として、また山口城主にも尊崇され徳川幕府より社領四石三斗を賜りました。明治維新後は埼玉県の県社の社格を賜りました。
敗戦直後の昭和二十年十一月連合国軍総司令部(GHQ)は、全国の神社の中より宮内省雅楽部多忠朝氏の琴を始めとする五人の部員が奏で、氏子の少女四人が浦安舞を舞う当社の臨時例大祭を視察したことは当時の日本政府に於いては固唾を呑む重大事でした。
この堤は、天正十八年(1590年)六月、石田三成によって、忍城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。:ここです→ ブログ人マップ
天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に、一~二メートル程盛土をしたものです。
こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下より、下忍・堤根に水が溜まってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。
今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿いに植えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。
平成元年三月
石田堤を守る会
埼玉県教育委員会
行田市教育委員会
常 世 岐 姫 神 社
社記によれば、当社は古来八王子権現宮と称し、広く崇敬を受けていたと伝える。江戸期は、真言宗東福寺が別当を務めていたが、神仏分離によりこれを離れた。
八王子権現は、山王七社権現の祭神の一つ国狭槌尊(くにのさづちのみこと)を祀る。また、八王子は天照大神と素戔嗚尊との誓約(うけい)の時に出現した五男三女の神、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・天之穂日命(あめのほひのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・活津日子根命(いくつひこねのみこと)・熊野久須毘命(くまぬくすひのみこと)・多紀毘賣命(たぎりひめのみこと)(沖津島比賣命(おきつしまひめのみこと))・市寸島比賣命(いきしまひめのみこと)(狭依毘賣命(さよりひめのみこと))・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)である。なぜ八王子権現宮に常世岐姫神社の名を付けたのかは不明である。姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。現在の祭神は、常世岐姫命(とこよぎひめのみこと)である。
また、大字渡柳(わたりやなぎ)にも同名の社(やしろ)があり、当社から分霊したものと伝えている。
社記によると、寛永一〇年と元禄一三年の棟札があると記されているが、現在、元禄の棟札のみが残されている。
明治六年に村社となったが、当社では合祀は行われなかった。
境内には末社として天神・伊奈利合殿社と目神社を祀る。末社の祭りとしては、天神社が三月二五日、伊奈利社が二月二二日となっていたが、これを行わなくなって久しい。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
常 世 岐 姫 神 社:ここです→ ブログ人マップ
当社の創建に関わる史料・口碑はないが、往古より渡柳の村の鎮守として祀られている。もともと、当社は八王子大権現と称し、万法院が別当であったが、明治初めの神仏分離により同寺の管掌を離れ、明治二年五月には現在の社名に改めて村社となった。その後、明治四二年に、同村内にあった諏訪神社・天神社・伊奈利神社・洗磯前神社・八幡神社・神明社・塞神社を合祀し、現在に至っている。
主祭神は常世岐姫命である。文政九年再建のものと伝えられる一間社流造りの本殿には、金幣のほかに、合祀を行った旨が墨書された神璽筥が納められている。
渡柳には、埼玉古墳群に属する前方後円墳三基をはじめとする多くの遺跡がある。当社も古墳上に建立され、幾つかの出土品を所蔵していたという。
なお、『風土記稿』には、渡柳の村名を姓とし、中世に活躍したという渡柳弥五郎の霊を祀った八幡社(通称は弥五郎八幡)が当社の末社として記されているが、現在その所在は不明である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁