When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
当社の創建は、神伝によると、天文四年(1535)のことである。一方、草分けの江原晴松家の口碑によれば、先祖荏原主計守勝が元応二年(1320)当地に土着し八王子神を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』に、当社は八王子権現社と載り「当村及柏合村の鎮守なり両村持」とある。古くは、当樫合と隣の柏合は一つの村であり、『風土記稿』が、更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期ごろ分村したものであろう。このため、両地区は現在も「付き合い村」と称して親交があり、カタガシ(樫合)・シロガシ(柏合)と呼び合っている。この柏合にも、八王子神社があり「分村の時、樫合の八王子権現の祭神である八王子のうち、男神の五王子を柏合に移し、樫合は残った女神の三王子を祀っている」という。これを裏付けるように、当社の氏子は「女の神様で、ハツオサンサマ(八王子様)というお産の神である」と言っている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
敬神崇祖はわが国古来の伝統美俗である惟うに当社は天文四年に創祀するところと伝えられはじめ八王子権現社として本地佛無盡意菩薩を安置した:ここです→ ブログ人マップ
爾来幾星霜村民崇仰の的として栄えるところがあったが徳川幕府の政事衰へ明治維新となるや神佛分離の掟によって八王子権現社を常世岐姫神社と改め今日に及んでいる
所在地 日高市大字新堀
高麗神社は、高句麗国(こうくりこく)の王族高麗王若光(こまこきしじゃっこう)を祀る社である。
高句麗人は中国大陸の松花江(しょうかこう)流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸北東部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀(れいき)二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡市に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多勢の参拝客が訪れている。
昭和五十七年三月 日高市