When words leave off music begins.
BGM on "♪YouTube":
Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
『風土記稿』に「大電八公社(だいてんはく)社 村の鎮守とす、徳蔵寺持」とあるように、当社は江戸時代には「大電八公社」もしくは「大電八公宮」と呼ばれていた。大電八公社は、大天白社・大天獏社などとも書かれ、県内では風・雨・雷の神であると共に、産神・百日咳の神としても信仰がある。当社の場合は、明治に入って大電神社と改称されたように雷神としての性格が強く、『明細帳』による祭神は別雷命である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻(みかじり)と書いた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神に祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。
また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
(中略)
中世に入ると、当地は東国武士の本拠地の一つとなったと考えられる。根岸義弘の『武乾記(ぶかんき)』に「三ヶ尻村に昔時瓶尻(みかじり)十郎胤光と云う武士あり、私(きさい)党の末孫なりとへり。」とある。また『吾妻鏡』に見える瓶尻小次郎も当地の出身であろう。これらの武士たちにより、同一村内にある八幡神社が、鎌倉幕府の尊信の神なる故をもって信仰され、いつしか古い氏神であった当社は衰退をみたのであろう。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
天正十八年(1590)榊原康政公は 十万石の領主として館林に入城すると間もなく 城下町の南に接する今の本町三丁目付近の開拓 さらにその南方新宿方面に連絡する大通りの新設などを 検断職青山出雲 小寺丹後両氏に命じた その結果慶長二年(1597)には城下町を縦貫する大通りが完成 両名はこれらの功によって 江戸口門外に給田地を与えられ附近はたちまちのうちに商家軒を並べるという活況を呈した そこで両検断は協議の末 古くから住民が信仰していた弁才天を鶴生田川北岸の大通り付近に建立した ところが年月を経ると人家が増え 境内も手狭になったので 東北に当たる城沼つづきの池水に囲まれた現在地に移し 浮島弁天と称した 弘化三年(1846)城主秋元家の位牌所が城内鷹匠町に建てられると 同寺住職が別当となった それから三年後の嘉永二年(1849)堂宇を再建 そのときの棟札に別当泰安寺 検断青山素右衛門ほか 地守 世話人ら地元関係者の名がある 明治元年(1868)神仏混交の禁令によって 弁才天は仏であるため 鎮守とすることができなくなり やむなく検断青山四郎二は戎屋が近江国の商人で 毎年業務見回りに来館する同店主人に依頼 翌二年同国琵琶湖北岸に鎮座する竹生島神社(市杵島姫命)を勧請した 明治六年十一月谷越村(俗称田町 荒宿)鎮守として村社に列せられ崇敬された 大正四年(1915)下町区長坂田百次郎 氏子総代正田卯平 森尻太吉 小暮兵吉 鈴木金五郎 渡辺松次郎 飯島惣次郎 世話人篠原与三郎 小曽根民十郎 石崎総一 大津喜三郎らは社務所修理を機に増築し社運の隆盛を図った また昭和五年四月(1930)神饌幣帛料供進神社に指定された 同十一年(1936)十一月三日夜社務所から出火全社殿を焼いたが 幸い御神体は消失を免れた 太平洋戦争勃発 敗戦により 昭和二十年(1945)十二月十五日神道指令の大変革に依り苦境に追いこまれたが 地域住人の信仰厚く現社屋は昭和六十一年(1986)氏子関係者 一般崇敬者の協力を得て神職総代の尽力により新築落成した
昭和六十一年五月一日 竹生島神社
(境内「竹生島神社建営碑」より)