森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

妻沼 大我井神社

2022年02月26日 | 1/7,726 

妻沼の聖天さま「貴惣門(きそうもん)」のすぐ東側、大我井の杜に鎮座する妻沼総鎮守「大我井神社(おおがいじんじゃ)」に参拝。


参道の正面に見えるんのは「神門(唐門)」。鳥居の後ろには「駒形社」が並んでいます。門神なのでしょうか?


参道左には、しっかりとガードされた「福石」。となりに由来の碑があるんだけど........ちょっと無理。なんだか、昔、洪水で流れ着いた石を祀っているそうで、「力石」ではないようだ。


神門(唐門)をくぐっての参拝。
大我井神社唐門の由来
当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移 動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した
時に昭和三十年十月吉晨なり


 鎮座地は、利根川右岸に半島状に突き出た自然堤防上にある。周囲は低地で、太古、利根川が乱流した折に大海のようになり、水が引くと大きな沼が二つ残った。古代の人々は、上の沼を男(お)沼、下の沼を女(め)沼と呼び、これらの沼には水の霊が宿ると信じた。このため、この二つの沼を望む自然堤防の突端に社を設け、季節ごとの祭祀を行った。この社とその周辺は、巨木が林立し昼なお暗い森を形成していた。森は、現在の「大我井神社」と「聖天山」の境内地を合わせたほどの広さで大我井の森と呼ばれる神域であった。また、ここは後に藤原光俊により「紅葉ちるおおがいの杜のゆうだすき又めにかかる山の端もなし」と詠われた。
 奈良期、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森に白髪神社を祀った。白髪神社は、『延喜式』神名帳に登載された幡羅(はら)郡四座の内の一座である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


 慶応四年(一八六八)から全国諸社に神仏混淆を禁じるため、神仏分離令が布達された。聖天社禰宜は、このような時流に乗じ、別当・社僧・社守修験を廃し、純然たる神社として祭祀を行うことを主張し、歓喜院と係争に及んだ。しかし、由緒ある聖天社の運営について長く係争することは崇敬者のためにも良しとせず、別当・禰宜・村役人立会いのもと明治元年十二月、和解が成立した。「議定書」によると、聖天社境内のうち妻沼宿並びに往来の東側に新たに分離独立した伊弉諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興し、禰宜はこの社の祭祀に専念すること、聖天社そのものは「聖天山」と改称し、以後寺院として歓喜院が運営すること。社僧はこれに属すること、従来の崇敬区域である妻沼村ほか二八か村は、二柱神社の氏子並びに聖天山の永代講中とすること、とある。
 聖天社から分離独立した二柱神社は、明治二年、社名を古代から神々の坐す大我井の森にちなみ、大我井神社と改称し、社殿が造営された。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


本殿はごくシンプルな神明造り。裏の森は妻沼小学校の校庭に続いています。


社殿脇には「大我井神社の火祭り」で有名な末社「富士浅間神社」の富士塚。石段脇に並んで「富士浅間大神」「小御嶽大神」「身禄神霊」「角行神霊」「角行霊神」「大澤御前大神」


西側の鳥居。両部鳥居だったんでしょうか? 穴のこってますね。


ちょっと残念な由緒板........。
武州妻沼郷大我井神社
大我井神社は遠く人皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社の祭典とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています。
熊谷市観光協会


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