私の頭の中の鉛筆

とりあえず書いておこう

集めておこう

朝鮮は人並みになったが、東北は見放されていた。と聞いた

2015-07-23 22:51:02 | 日記



>>「支援しても感謝はなし」 韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”

そもそも1965年に日本と韓国の間で日韓基本条約を締結した際に、「解決金」という名の莫大な賠償を求められた。
日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄する代わりに、無償で3億ドル、有償で2億ドル、
民間借款3億ドルの総額8億ドルの資金援助を提供した。




>>2015年4月21日

 日本のチベットと言われる岩手県の…。

 こんな言葉から始まる大牟羅良(おおむらりょう)(1993年に83歳で死去)の「ものいわぬ農民」(岩波新書、58年)は、戦後岩手の貧しさと後進性を全国に知らしめた。地元には批判も多い「名著」だが、農村の人々と共に新時代をつくり出そうとした大牟羅とその仕事に、東日本大震災後の今、再び光が当てられている。

 戦後、満州から復員した大牟羅が生活のために始めたのは古着の行商だった。そこで出会ったのは、「家制度」の下で声も出せない農家の嫁や、結婚できない次男、三男。「死ぬのを待っているばかりでがんす…」。こう嘆く老人たちだった。


>>昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した[要出典]。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。[



>>    真下紀子視察レポート

戦後になっても、豪雪のため冬期交通は確保できず、老人は健康を壊してもお金がかかるため医療を受けられず、昭和30年には赤ちゃんが1,000人生まれたうち70人の割合で死ぬという、乳幼児死亡率が最も高い地域でした。生活扶助率は10%を超えていました。

豪雪・貧困・多病で苦しむ沢内に昭和32年(1957)に誕生した深澤晟雄村長が住民の命を守る行政の実現に尽力しました。

深澤村長は「いまの世の中は生命さえ商品扱いであります。生命の商品化は絶対に許されません。人間尊重、生命尊重こそが政治の基本でなければなりません。
 沢内村の野蛮条件の解消こそが、すべての行政に先んじて行われなければならない。生まれた赤ちゃんがコロコロ死んでいく。月ロケットが飛ぶ時代に雪道をテクテク歩かねばならんなど全くの時代錯誤」とのべ、国の圧力にも負けることなく「本来命を守るのは国の責任です。